『紀』神武即位前紀甲寅年条に次のような記述がみえます。
抑又、塩土老翁に聞きき。
曰ひしく、『東に美き地有り。青山四周れり。
其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り』といひき。
余謂ふに、彼の地は必ず以て大業を恢弘べて、天下に光宅るに足りぬべし。
蓋し六合の中心か。
厥の飛び降るとい者は、是饒速日と謂ふか。
何ぞ就きて都つくらざらむ。
神武が東征の目的を「饒速日(ニギハヤヒ)の住む土地に行き、都を定め、国を作る」と表明していることに注目します。
神武が饒速日と出会うまでの経過は、『紀』神武即位前紀戊午年4月条・12月条に記されます。
難波に上陸した神武は、「胆駒山」の「孔舎衛坂」で長髄彦と戦い、兄の彦五瀬が負傷したため、茅渟・紀伊へ撤退します。
彦五瀬の没後、神武は、熊野、宇陀を経て、大和盆地に入り、再び長髄彦との戦いに挑みます。
神武と饒速日は、互いの「天羽羽矢一隻及び歩靫」を見て、天神の子であることを確認し合い、饒速日は神武に帰順することになりますが、長髄彦は神武へ敵対心を持ち続けたため、饒速日に殺されました。
かつて河内低地には湖沼が広がり、生駒山地西麓一帯は「草香江(日下江)」とよばれる入江となって、生駒山から北に延びる山系の西側は「草香山」とよばれていました。
「孔舎衛(くさえ)坂」は、「草香山」を越えて、難波方面と大和を結ぶ重要な交通路で、現在のどの道にあたるかについては、善根寺から登る善根寺越、石切からの辻子谷越、豊浦からの暗峠越、上六万寺からの鳴川峠越など諸説あります。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:東大阪市>旧枚岡市地区>善根寺村>草香江・孔舎衛坂)
長髄彦について、『紀』神武即位前紀戊午年12月条は次のように記します。
長髄は是邑の本の名なり。因りて亦以て人の名とす。
皇軍の、鵄の瑞を得るに及りて、時人依りて鵄邑と号く。
今鳥見と云ふは、是訛れるなり。
「鳥見」は、興福寺大乗院領荘園の上鳥見庄・中津鳥見庄・下鳥見庄の所在地から、奈良県生駒市鹿畑町・上町・奈良市二名町・三碓町、石木町など、富雄川流域に比定されます。
「孔舎衛坂」を難波方面から越えた、生駒山地の東側の勢力であることがわかります。
長髄彦は、饒速日と次のような関係にあります。
櫛玉饒速日命 ├─────可美真手命 ┌──三炊屋媛(亦の名長髄媛・鳥見屋媛) └──長髄彦
いっぽう、神武の兄、彦五瀬に関係して、『紀』神武即位前紀戊午年4月条に、傷の痛みに雄叫びしたことから、「茅渟の山城水門(亦の名山井水門)」は「雄水門(をのみなと)」と名付けられ、紀国の「竈山」で没して葬られたことが記されます。
『記』にも、「男水門」「竈山」「血沼(ちぬ)海」に関わる記述がみえます。
「雄水門(男水門)」は、和泉国日根郡の式内社で彦五瀬を祭神とする男神社(おのじんじゃ)が鎮座する、大阪府泉南市男里、男里川河口域に比定されます。
「竈山」は、『延喜式』諸陵寮にみえる彦五瀬命竈山墓の地とされる、紀伊国名草郡の式内社竈山神社が鎮座する、和歌山県和歌山市和田に比定されます。
彦五瀬は、茅渟・紀伊との深い関係が示されています。
「孔舎衛坂」の戦いについて、長髄彦というトリックスターによって、神武の近くから、彦五瀬(茅渟・紀伊)が排除され、饒速日(生駒山地東麓鳥見)が参入したという構図が窺われます。
◇ 『記』『紀』垂仁段に関して、「活目入彦五十狭茅(垂仁)」の「活目」は「生駒」で、長髄彦と同じ勢力を示し、また、「五十瓊敷入彦」による作刀の場所は、彦五瀬伝承地域と一致する。(→ 五十瓊敷と茅渟菟砥川上宮)
◇ 和泉国日根郡の男里川河口域、紀伊国名草郡の竈山は、5世紀後半に衰亡した紀臣の拠点である。