『紀』に、大物主神・倭大国魂神・天照大神の3神の祭祀について、次のような記述がみえます。
(崇神紀6年条)
六年に、百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。
其の勢、徳を以て治めむこと難し。
是を以て、晨に興き夕までに惕りて、神祇に請罪る。
是より先に、天照大神・倭大国魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。
然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安らかず。
故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。
仍りて磯堅城の神籬を立つ。
亦、日本大国魂神を以ては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ。
然るに渟名城入姫、髪落ち体痩みて祭ること能はず。
(崇神紀7年2月条)
是に、天皇、乃ち神浅茅原に幸して、八十万の神を会へて、占問ふ。
是の時に、神明倭迹迹日百襲姫命に憑りて曰はく、
「天皇、何ぞ国の治らざること憂ふる。
若し能く我を敬ひ祭らば、必ず当に自平ぎなむ」とのたまふ。
天皇問ひて曰はく、
「如此教ふは誰の神ぞ」とのたまふ。
答へて曰はく、
「我は是倭国の域の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」とのたまふ。
時に、神の語を得て、教の随に祭祀る。
然れども猶事に於て験無し。
天皇、乃ち沐浴斎戒して、殿の内を潔浄りて、祈みて曰さく、
「朕、神を礼ふこと尚未だ尽ならずや。
何ぞ享けたまはぬことの甚しき。
冀はくは亦夢の裏に教へて、神恩を畢したまへ」とまうす。
是の夜の夢に、一の貴人有り。
殿戸に対ひ立ちて、自ら大物主神と称りて曰はく、
「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意ぞ。
若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭りたまはば、立ちに平ぎなむ。
亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ」とのたまふ。
(崇神紀7年8月条)
倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、
三人、共に夢を同じくして、奏して言さく、
「昨夜夢みらく、一の貴人有りて、誨へて曰へらく、
『大田田根子命を以て、大物主大神を祭ふ主とし、
亦、市磯長尾市を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、
必ず天下太平ぎなむ』といへり」とまうす。
天皇、夢の辞を得て、益心に歓びたまふ。
布く天下に告ひて、大田田根子を求ぐに、
即ち茅渟県の陶邑に大田田根子を得て貢る。
天皇、即ち親ら神浅茅原に臨して、諸王卿及び八十諸部を会へて、
大田田根子に問ひて曰はく、
「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。
対へて曰さく、
「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。
亦云はく、
「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」といふ。
(崇神紀7年11月条)
即ち大田田根子を以て、大物主大神を祭る主とす。
又、長尾市を以て、倭の大国魂神を祭る主とす。
(崇神紀8年4月条)
高橋邑の人活日を以て、大神の掌酒とす。
(崇神紀8年12月条)
天皇、大田田根子を以て、大神を祭らしむ。
是の日に、活日自ら神酒を挙げて、天皇に献る。
仍りて歌して曰はく、
此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
如此歌して、神宮に宴す。
即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
即ち神宮の門を開きて、幸行す。
所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。
(垂仁紀25年3月条)
天照大神を豊耜入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ。
爰に倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の筱幡に詣る。
更に還りて近江国に入りて、東美濃を廻りて、伊勢国に到る。
時に天照大神、倭姫命に誨へて曰はく、
「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。
傍国の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。
故、大神の教への随に、其の祠を伊勢国に立てたまふ。
因りて斎宮を五十鈴の川上に興つ。
是を磯宮と謂ふ。
則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。
(垂仁紀25年3月条一云)
一に云はく、天皇、倭姫命を以て御杖とし、天照大神に貢奉りたまふ。
是を以て、倭姫命、天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祀る。
然して後に、神の誨の随に、丁巳の年の冬十月の甲子を取りて、
伊勢国の渡遇宮に遷しまつる。
是の時に、倭大神、穂積臣の遠祖大水口宿禰に著りたまひて、誨へて曰はく、
「太初の時に、期りて曰はく、『天照大神は、悉に天原を治さむ。
皇御孫尊は、専に葦原中国の八十魂神を治さむ。
我は親ら大地官を治さむ』とのたまふ。
然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、
微細しく未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。
故、其の天皇命短し。
是を以て、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、
汝尊の寿命延長く、復天下太平がむ」とのたまふ。
時に天皇、是の言を聞しめして、則ち中臣連の祖探湯主に仰せて、卜ふ。
誰人を以て大倭大神を祭らしめむと。即ち渟名城稚姫命、卜に食へり。
因りて渟名城稚姫命に命せて、神地を穴磯邑に定め、大市の長岡岬を祠ひまつる。
然るに是の渟名城稚姫命、既に身体悉に痩み弱りて、祭ひまつること能はず。
是を以て、大倭直の祖長尾市宿禰に命せて、祭らしむといふ。
条文毎に、祭祀された神を整理すると、次のとおりです。
① | 崇神紀6年条 | 倭大国魂神・天照大神並祭の後、分離 |
② | 崇神紀7年2月条 | 大物主神を祭祀 |
③ | 崇神紀7年8月条 | 大物主神と倭大国魂神を祭祀 |
④ | 崇神紀7年11月条 | 大物主神と倭大国魂神を祭祀 |
⑤ | 崇神紀8年12月条 | 大物主神を祭祀 |
⑥ | 垂仁紀25年3月条 | 天照大神を伊勢に遷祠 |
⑦ | 垂仁紀25年3月条一云 | 天照大神を伊勢に遷祠、倭大国魂神を祭祀 |
祭祀者は次のとおりです。
① | 天照大神(豊鍬入姫)/ 倭大国魂神(渟名城入姫、病み衰えて降板) |
② | 大物主神(大田田根子) |
③ | 大物主神(大田田根子)/ 倭大国魂神(市磯長尾市) |
④ | 大物主神(大田田根子)/ 倭大国魂神(市磯長尾市) |
⑤ | 大物主神(大田田根子) |
⑥ | 天照大神(豊鍬入姫から倭姫へ交替) |
⑦ | 天照大神(倭姫)/ 倭大国魂神(渟名城稚姫、病み衰えて降板、長尾市宿禰へ交替) |
祭祀の創始に関与した人物は次のとおりです。
② | 神明倭迹迹日百襲姫 |
③ | 倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君 |
⑦ | 穂積臣遠祖大水口宿禰(倭大国魂神) |
一見して、『紀』の条文には錯簡があり、正しい時系列ではないことが窺われます。
3神は、実際にどのような時系列で祭祀されたのか、着眼点を5つ示します。
❶ ②③④⑤をみると、②⑤は、大物主神の祭祀のみが記されるのに対し、③④は、大物主神と倭大国魂神が同時に祭祀されたとあります。
「大物主神と倭大国魂神は同時に祭祀されたのか」という疑問が浮かび上がります。
❷ 倭大国魂神の祭祀者について、①に、渟名城入姫が病み衰えて降板したことがみえ、⑦に、同じ理由で渟名城稚姫から長尾市への交替が記されますが、③④は、長尾市とだけ記し、「なぜ、渟名城入姫のことが言及されていないのか」という問題が浮かび上がります。
❸ ⑦に、倭大国魂神の祭祀の契機となった神の言葉がみえます。
「前の天皇(崇神)は、枝葉だけをみて本源を求めない祭祀をしたので短命に終わった。その点を改めて祭祀を行えば、汝(垂仁)の寿命は長く、天下太平となろう」とあって、「倭大国魂神の前に祭祀された神とは何なのか」という問題が浮かび上がります。
❹ 天照大神について、①に、当初、倭大国魂神と並祭されていたけれど、神々の相性が悪く、伊勢に遷祠されたことがみえ、⑦に、倭大国魂神の祭祀の開始と同時期に、伊勢に遷祠されたと記されます。
①⑦で微妙な時期のずれがみられますが、天照大神の伊勢遷祠が倭大国魂神の祭祀と深く関わることが窺われます。
❺ ③に、大物主神の祭祀者の母について、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」とみえ、「奇日方天日方」は『記』の大物主神祭祀者の系譜に「櫛御方」、『姓氏録』の石辺公の祖に「久斯比賀多」とみえます。
クシヒガタは、茅渟の勢力の奉祭する日神と推測され、大田田根子による大物主神祭祀は、茅渟の日神を三輪山の神に並祭する方式であったと思われます。(→ 大物主神と大田田根子)
❶❷❸❹❺をみてくると、三輪山の神を鎮めるため、茅渟の勢力の奉祭する日神が並祭されたが、日神と三輪神の相性が悪く問題が生じたので、日神を伊勢に遷し、新たに、倭大国魂神という方式で奉祭することになったと推測されます。
◇ 『記』『紀』に、三輪山の神として、①雄略朝の雷神、②大物主神、③倭大国魂神、④大己貴神の4神がみえるが、時系列は①②③④の順と思われる。(→ 三輪山の神の変遷)
◇ 『記』の伊勢神宮内宮起源伝承は、天孫降臨神話にみえる。(→ 『記』の伊勢神宮内宮起源伝承)