三輪山西麓、奈良県桜井市三輪に鎮座する大神神社は、『延喜式』神名帳に「大神大物主神社」と記され、大和国城上郡の名神大社となっています。
『記』『紀』に、三輪山の神として次の4神がみえます。
① | 少子部蜾蠃の雷神 | 『紀』 | 雄略 |
② | 大物主神 | 『記』『紀』 | 崇神 |
③ | 倭大国魂神 | 『紀』 | 崇神・垂仁 |
④ | 大己貴神の幸魂奇魂 | 『記』『紀』 | 神代 |
4神の時系列は次のように推測されます。
大神神社の祭神は、一般的に②もしくは④と思われますが、②が祟り神であるのに対し、④は国作りの良神とされ、性格の違いが際立ち、同一神とみることに疑問があります。
②の祟り神に近い性格を持つのは①の雷神だけであり、4神のなかで唯一祭祀の実年代が明らかで、5世紀後半の雄略朝とされ、少子部蜾蠃や大彦の子集めの伝承から、大王直属の臣下集団形成に関わる神と推測されます。(→ 雄略朝の三輪山の神)
②は、「茅渟」「陶」の勢力が、クシヒガタという、自分たちが奉祭する日神を並祭することで、①の神威の掌握を図ったものと思われます。(→ 大物主神と大田田根子)
②③について、『紀』垂仁紀25年3月条一云に、②の「不首尾」を受けて③の祭祀に至ったことが記され、同時期に、②に並祭していた日神を伊勢に移したという記述がみられます。
③では、日神並祭を中止して、別の方式に移行したものと思われます。(→ 倭大国魂神と大物主神)
①②③に「出雲」の要素は認められません。
『姓氏録』(815年成立)に、大神朝臣は大国主の後裔氏族とあり、『延喜式』祝詞の出雲国造神賀詞に、大己貴命の和魂を八咫の鏡に取付けて、倭の大物主櫛𤭖玉命として、大御和の神奈備に鎮祭し、皇宮の近き守りとなしたと記されます。
これは、現在に至る、④の大神神社の祭神の性格を示します。
④の成立について、『記』『紀』は、「少彦名が常世へ去ったこと」を契機と記します。
「少彦名が常世へ去る」とは、6世紀の継体朝末、朝鮮半島南部加耶諸国の滅亡に連動して起きた「少名日子建猪心」組織の崩壊を示すものと推測します。(→ 大己貴と少彦名)(→ 「少彦名」の年代観)
三輪山の神の変遷の背後に、大王直属の臣下集団と鉄の精錬・鍛造勢力の拮抗が窺われます。
②にあたる5世紀末に、大王直属の臣下集団による鉄の精錬・鍛造勢力の掌握が急速に行われましたが、最大雄族の「出雲」掌握の際に「行き過ぎ」があって、そのことが王権に大きな混乱をもたらし、継体朝に③で対応したものの、さらに明確な求心力が必要となり、欽明朝に④に至ったものと思われます。