遠津年魚眼眼妙媛と豊城入彦・豊鍬入姫

『紀』に、崇神天皇の妃として、遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしひめ)がみえます。(『記』は、遠津年魚目々微比売と表記)

遠津年魚眼眼妙媛は、『紀』に「紀伊国荒河戸畔の女」、『記』に「木国造荒河刀弁女」と記されます。(『紀』に遠津年魚眼眼妙媛の注としてみえる「一云、大海宿禰女八坂振天某辺」は、次妃の尾張大海媛に付すべきものを誤って記したと解されます)

「荒河」は、『和名抄』の紀伊国那賀郡荒川郷、中世の荒川庄の地、和歌山県紀の川市桃山町に比定されます。

遠津年魚眼眼妙媛は、崇神とのあいだに、豊城入彦と豊鍬入姫をもうけました。

豊城入彦について、『紀』崇神紀48年正月条に、異母弟の活目入彦五十狭茅と御諸山に登り、東方を臨む夢をみた豊城が東国を治め、四方を臨む夢を見た活目が王位を継ぐと決まったことが記されます。

『紀』崇神紀48年4月条に「上毛野君・下毛野君の始祖なり」とみえ、「国造本紀」にも、上毛野国造について「瑞籬朝 皇子豊城入彦命孫彦狭嶋命初治平東方十二国為封」、下毛野国造について「難波高津朝御世 元毛野国分為上下 豊城入彦命四世孫奈良別初定賜国造」とあり、上野国・下野国との深い関係が認められます。

いっぽう、『姓氏録』に豊城入彦後裔37氏がみえますが、下記のように、豊城入彦の子や3世孫の後裔を称する氏族が和泉国に多く認められることが注目されます。

和泉国皇別珍県主豊城入彦命3世孫御諸別命の後なり
登美首豊城入彦命男、倭日向建日向八綱田命の後なり
葛原部豊城入彦命3世孫大御諸別命の後なり
軽部倭日向建日向八綱田命の後なり
和泉国皇別(未定雑姓)我孫公豊城入彦命男、倭日向建日向八綱田命の後なり

特に、茅渟(珍)県主は、国府の在地勢力であり、軽部・我孫公については、和泉国和泉郡軽部郷が国府と国津(和泉大津)を繫ぐ地域に比定され、我孫子の地名も残ることから、政治的中心地域が豊城入彦の子と3世孫の後裔に占められていたことがわかります。

豊鍬入姫については、『紀』崇神紀6年条に、天照大神を倭の笠縫邑で祭祀したことがみえ、『紀』垂仁紀25年3月条に、祭祀者が豊鍬入姫から倭姫に交替した後、天照大神は伊勢に遷祠されたことが記されます。

『記』には「伊勢大神の宮を拝み祭りき」と記され、豊鍬入姫と伊勢神宮内宮神との深い関係が窺われます。

和泉国と伊勢神宮内宮神を結ぶ線として、三輪山の大物主神祭祀が注目されます。

『紀』崇神紀に、大物主神祭祀者大田田根子の出身地が「茅渟の陶邑」、その母は「陶津耳女活玉依媛」「奇日方天日方武茅渟祇女」とあり、「茅渟」「陶」など和泉国との深い関係が認められ、「奇日方天日方」の「日方」は「日像」で日神を表し、『記』『紀』崇神段の大物主神祭祀とは、三輪山の神に、茅渟の勢力の奉祭する日神を並祭する方式であったと推測されます。(→ 大物主神と大田田根子

その後、2神は相性が悪かったため分祀され、日神は、豊鍬入姫が奉祭した後、倭姫によって伊勢に遷祠され、今日の伊勢神宮内宮に至ります。(→ 大物主神と倭大国魂神

『記』『紀』崇神段の遠津年魚眼眼妙媛と豊城入彦・豊鍬入姫の系譜は、三輪山の神に並祭された、伊勢神宮の起源となる日神を奉祭する茅渟の勢力のものと思われます。

紀伊国那賀郡荒川郷を継承する中世の荒川庄の鎮守社である三船神社(和歌山県紀の川市桃山町神田)は、木霊屋船命・太玉命・彦狭知命を祭神とします。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):和歌山県:那賀郡>桃山町>神田村>三船神社)

3神は、忌部氏の祖神と関係神であり、太玉命が天岩戸神話において天照大神と密接な関係を持つことも、当該勢力と伊勢内宮神とのつながりを示しています。

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