丹波国桑田郡は、現在の京都府亀岡市、南丹市美山町、京都市右京区の京北地区にあたります。
『紀』に、丹波国桑田郡をめぐる話が3つみえます。
〈『紀』垂仁紀87年2月条 〉丹波国桑田郡の甕襲(みかそ)が飼っていた足往(あゆき)という犬が牟士那(むじな)をくい殺し、その腹から見つかった八尺瓊の勾玉が献上された。玉は今、石上神宮にある。
〈『紀』仁徳紀16年7月条 〉仁徳天皇は、桑田玖賀媛を妻に迎えようとした。しかし、后の磐之媛が酷く嫉妬したため、玖賀媛は播磨国造祖速待に与えた。玖賀媛は速待を拒絶したが、天皇はそのことを知らずに速待に桑田に帰郷する玖賀媛を送るよう命令し、道中、玖賀媛は病で死んだ。
〈『紀』継体即位前紀 〉武烈天皇の没後、大伴金村ら重臣は、丹波国桑田郡の倭彦王を大王に推戴しようと迎えに行ったが、倭彦王は恐れをなして山に逃げてしまった。
また、『記』崇神段に「日子坐王は、旦波国に遣して、玖賀耳之御笠を殺さしめき」とみえますが、旦波国は丹波国と丹後国を示すことから、玖賀耳之御笠の「玖賀」は、『紀』仁徳紀の桑田玖賀媛の「玖賀」と同じ、桑田郡の地名と推測され、王権と敵対する勢力の存在が窺われます。
「玖賀」によく似た地名として、山城国乙訓郡に「久我」が認められます。
「久我」は、京都市伏見区久我(御旅町・森の宮町・西出町・石原町・東町・本町)にあたり、『旧事紀』「天神本紀」にみえる天背男後裔氏族の山背久我直の拠点と推測されます。(→ 山城国の天背男後裔氏族)
『紀』神代紀第9段に、悪しき神の天香香背男討伐の話がみえ、また、『山城国風土記』逸文の鴨氏伝承も久我を舞台としています。(→ 倭文神建葉槌と天香香背男)(→ 『山城国風土記』逸文の鴨氏伝承と久我)
また、天背男後裔氏族は、山城国乙訓郡のほかに、尾張国中島郡・海部郡に顕著な分布がみられます。(→ 尾張国中島郡の天背男後裔氏族)
『紀』継体即位前紀にみえる倭彦王の伝承はどのような意味を持つのか判然としないのですが、その後、大王となった継体が乙訓に王宮を構えたこと、尾張連草香の娘の目子媛を妃としていることと、「玖賀(久我)」という繋がりが認められます。
継体即位直前の王権が「玖賀(久我)」の攻略に苦慮していたような状況が想像されます。
『延喜式』神名帳の丹波国桑田郡に名神大社として出雲神社・小川月神社の2社がみえる。(→ 丹波国桑田郡の出雲神・月神)