百済の武寧王は、筑紫の「各羅嶋」の生まれであることが『紀』雄略紀及び武烈紀にみえます。
「各羅嶋」とは、東松浦半島の波戸岬から波戸水道を隔て北約5kmにある加唐島です。(佐賀県唐津市鎮西町加唐島)
『紀』雄略紀5年4月条・6月条によると、蓋鹵王は、弟の昆支を倭国に派遣するにあたり、自分の妻を与えますが、臨月を迎えているその女性が途中で出産したならば、子を百済に送り返すよう命令します。
女性は、筑紫の「各羅嶋」で子を生み、子は百済へ還されて武寧王となります。
『紀』武烈紀4年是歳条所引の「百済新撰」に、次のようにあります。
琨支、倭に向づ。
時に、筑紫嶋に至りて、斯麻王を生む。
嶋より還し送りて、京に至らずして、嶋に産る。
故因りて名く。
今各羅の海中に主嶋(にりむせま)有り。
王(こきし)の産れし嶋なり。
故、百済人、号けて主嶋とすといふ。
重要な部分は、「嶋より還し送りて、京に至らずして、嶋に産る」と思われます。
武寧王(斯麻王)の各羅嶋伝承は、「倭国の入口で引き返した、倭王権の息のかかっていない王」であることを寓話的に描いていると思われます。
461年、百済の蓋鹵王が弟の昆支を倭王のもとに派遣したのは、高句麗の軍事的圧迫に対して、倭王に支援を求める意味がありました。
昆支は、15年程倭国に滞在し、5人の子をもうけます。
『延喜式』神名帳に河内国安宿郡の名神大社としてみえる飛鳥戸神社(大阪府羽曳野市飛鳥)の奉祭氏族である飛鳥戸造について、『姓氏録』河内国諸蕃に次のようにみえます。
飛鳥戸造 百済国主、比有王の男、琨伎王自り出づ
飛鳥戸造 百済国の末多王の後なり
475年、高句麗によって百済漢城が陥落し、蓋鹵王が戦死すると、百済の高官、木刕満致は、熊津(公州)で文周王を擁立し、479年、昆支の子である末多王が倭国から百済へ送られました。
さらに、481年、文周王が解仇に殺害されると、末多王(東城王)が即位し、一時的な滅亡状態となった百済の復興に当該期倭王権は積極的に介入しました。
(山尾幸久『古代の日朝関係』塙書房、1989年、156~162頁)
比有王──┬──蓋鹵王 │ ├───武寧王(斯麻王) │ ○ │ │ └──昆支 ├───末多王(東城王) ○
しかし、502年、倭王権が派遣した昆支の子、末多王が殺され、代わって武寧王が即位します。
『紀』武烈紀4年是歳条所引『百済新撰』に、次のようにみえます。
末多王、無道して百姓に暴虐す。国人、共に除つ。武寧王立つ、
武寧王は、「国人、共に除つ」の仲間であった可能性があります。
武寧王の各羅嶋伝承からみると、武寧王は、倭国生まれの末多王を即位させ百済復興に関与した当該期倭王権の一派とは、距離を置いていたのではないかと思われます。
「隅田八幡鏡」銘文に、武寧王から継体と思しき人物へのアプローチがみえますが、武寧王は継体を、当該期倭王権一派とは別系統の有力者とみて「俺と組まないか」と誘った可能性があります。(→ 「隅田八幡鏡」銘文)