彦屋主田心と道君

越国造は、『紀』孝元紀に、大彦命の後裔とあります。

「国造本紀」には、次のように記されます。

高志国造 志賀高穴穂朝御世 阿閇臣祖屋主男心命三世孫市入命定賜国造

「屋主男心」は、『姓氏録』右京皇別上の道公の項に、「大彦命の孫、彦屋主田心命の後なり」とみえる「彦屋主田心」のことであり、また、「市入」は、『和気系図』に、「右六人母高志道君祖伊知利生女都夫良媛」とみえる「高志道君祖伊知利」と同一人物とみられることから、高志国造は道君(公)氏と判断されます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』、1982年、177頁)

越(高志)国造の本拠地は、特定されていません。

越中国府と式内社である道神社が所在する、越中国射水郡が候補にあがるかと考えますが、「国造本紀」では、伊彌頭(射水)国造は、蘇我臣(武内宿禰系譜)系となっています。(→ 越の11国造

また、天平3年(731)2月26日越前国正税帳(正倉院文書)に、越前国加賀郡の郡司として、道君某・道君五百島・道君安麻呂がみえ、『続日本紀』天平宝字5年(761)2月3日条に、加賀郡少領の道公勝石がみえることから、加賀郡の郡領氏族の主力は、道君であったことがわかります。(本拠地は、森下川・金腐川流域とされます)

また、道君に関わるとみられる、『和名抄』加賀国石川郡味知郷も、弘仁14年(823)以前は、越前国加賀郡に属しました。

ところが、「国造本紀」では、加我(加賀)国造は、三尾君(垂仁系譜)系となっています。(→ 越の11国造

加賀郡・射水郡の道君をめぐる問題は、「屋主忍男武雄心」「少名日子建猪心」「彦屋主田心」という酷似する名の祖神が武内宿禰系譜と大彦系譜の双方に含まれること、継体朝(6世紀前半)に重要な勢力であった三尾君が、7世紀以降史料にほぼ現れないことと深く関わると思われます。(→ 屋主忍男武雄心)(→ 屋主忍男武雄心と少名日子建猪心

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