『出雲国風土記』の天𤭖津日女・天御梶日女

『尾張国風土記』逸文に、『記』『紀』垂仁段のホムツワケ伝承の異伝がみえます。

日置部等祖建岡君がホムツワケが言葉を取り戻すことができるよう「多具国の神、阿麻乃弥加都比女」を祭祀したのが尾張国丹羽郡吾縵郷の阿豆良神社の起源とされます。(→『尾張国風土記』逸文のホムツワケ伝承

「多具国の神、阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)」は、『出雲国風土記』にみえる「天𤭖津日女(あめのみかつひめ)」もしくは「天御梶日女(あめのみかぢひめ)」とされます。

「天𤭖津日女」は、『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷条にみえます。

出雲の郡伊農の郷に坐す、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后、

天𤭖津日女の命、国巡り行き坐しし時に、

此処に至り坐して詔りたまひしく、

「伊農波夜」と詔りたまひき。

故れ、伊努と云ふ。〈神亀三年、字を伊農と改む。〉

『出雲風土記』秋鹿郡伊農郷条

出雲郡伊農郷の赤衾伊農意保須美比古佐和気能の后である天𤭖津日女により、秋鹿郡伊農郷の名称が定まったことが記され、赤衾伊農意保須美比古佐和気能と天𤭖津日女の2神は、「伊農(いぬ)」の地名と関わることがわかります。

秋鹿郡伊農郷は、島根県出雲市美野町に比定され、伊努神社が鎮座します。

出雲郡伊農(伊努)郷は、島根県出雲市東林木町・西材木町に比定され、前者に『出雲国風土記』の伊農社とされる都我利神社、後者に『出雲国風土記』の伊努社とされる伊努神社が鎮座します。

『出雲国風土記』出雲郡伊努郷条に、赤衾伊農意保須美比古佐和気能は、雄大な国引きの伝承の八束水臣津野(意美豆努)の子と記されます。

「天御梶日女」は、『出雲国風土記』楯縫郡神名樋山条にみえます。

高さ一百廿丈五尺、周り廿一里一百八十歩なり。

嵬の西に石神あり。高さ一丈、周り一丈なり。

往の側に小き石神百余許り在り。

古老伝へて云はく、

阿遅須枳高日子の命の后の天御梶日女命、多具の村に来坐して、

多伎都比古の命を産み給ひき。

その時、教し詔りたまはく、

「汝が命の御祖の而く泣きたまへ。生きむと欲さば、此処宜し」とのりたまひき。

謂はゆる石神は、すなはち是れ、多伎都比古の命の御託なり。

旱に当りて雨を乞ふ時は、必ず零らしめたまふ。

『出雲風土記』楯縫郡神名樋山条

神名樋山山頂の西にある石神は、古老によると、阿遅須枳高日子の后の天御梶日女が多具村で生んだ多伎都比古の依代とされます。

『尾張国風土記』逸文に「多具国の神、阿麻乃弥加都比女」とあるので、ホムツワケが言葉を取り戻すよう祭祀された阿豆良神社の神は天御梶日女の可能性が高いことがわかります。

多具村は、島根県出雲市多久町に比定され、式内社の多久神社が鎮座します。

多久神社は、近世に大船大明神とよばれ、背後の大船山を御神体とするものとみられ、『出雲国風土記』楯縫郡神名樋山は大船山に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):島根県:平田市>多久村)

また、天御梶日女は子に対し父のように泣けと言ったとありますが、父の阿遅須枳高日子が泣くことについて、『出雲国風土記』仁多郡三沢郷条に「阿遅須伎高日子の命、御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼も夜も哭き坐して、み辞通はざりき」と記されます。

ところが、『紀』垂仁紀23年9月条に、ホムツワケについて同様の記述がみえます。

天御梶日女の子の多伎都比古はホムツワケと属性の重複があるようです。

これは何を意味するのか。

『記』『紀』において、ホムツワケが言葉を取り戻す鍵となる、出雲国出雲郡の仏経山北麓の漆治・健部の2郷が出雲振根の拠点であることから、ホムツワケ伝承は、『紀』崇神紀の神宝の持ち出し伝承と連続する話とみられます。(→ ホムツワケ伝承と出雲

持ち出されたのは、鳥の神とみられる「武日照」の神宝でした。

『記』『紀』でホムツワケ養育にあたる鳥取と同祖関係にある倭文の神社は、阿遅須枳高日子の妻や妹とされる下照姫を祭神とし、鳥の禁忌が認められます。

「武日照」と「下照姫」のつながりが鍵とみられます。

◇ ホムツワケ伝承と出雲・尾張の関係について、「出雲の神宝は返されたのか」へどうぞ。

天𤭖津日女の夫の赤衾伊農意保須美比古佐和気能を祀る、出雲郡伊努郷の伊農社に比定される、都我利神社の祭神は、『雲陽誌』(黒沢長尚 享保2年(1717))に味耜高彦根とされます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):島根県:出雲市>東材木村>都我利神社)

天御梶日女だけではなく、天𤭖津日女にも味耜高彦根とのつながりが認められます。

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