『紀』垂仁紀の都怒我阿羅斯等伝承と天之日矛

『紀』垂仁紀元年是歳条の蘇那曷叱智の帰還記事の異伝として、都怒我阿羅斯等伝承がみえます。

都怒我阿羅斯等伝承は2つの話からなり、1つは「角鹿」の地名起源、1つは「比売語曾社」の起源を記します。

「角鹿」の地名起源伝承はつぎのような話です。

越国の笥飯浦に額に角のある人が来たので「角鹿」と名付けられたが、その人は、意富加羅国の王の子、都怒我阿羅斯等(亦の名于斯岐阿利叱智干岐)であり、帰国する際、「御間城」(崇神)に因み祖国の名を「弥摩那(みまな)国」とし、また、下賜された赤織絹が新羅人に奪われ、任那国と新羅国の対立の起源となった。

この話は、『紀』継体紀23年4月条にみえる、「任那の王、己能末多干岐」「阿利斯等」の来朝に関わるかと思われます。

「任那の王、己能末多干岐」「阿利斯等」とは、大加耶国王(異脳王)のことであり、529年、新羅との婚姻連盟が破綻したため倭国に応援を要請してきました。(→ 磐井の乱と近江毛野臣の渡海

当該期、加耶諸国(「任那」)と新羅の関係が緊迫していたことも符合します。

「比売語曾社」の起源伝承はつぎのような話です。

都怒我阿羅斯等は、牛と引き換えに得た玉が童女となって逃げたので、追いかけると、難波と豊国国前郡の比売語曾社の神となった。

この話は、『記』応神記の天之日矛伝承と類似します。

新羅国王の子天之日矛は、ある男から日光と交わった女が産んだ玉をもらい、玉は乙女となって日矛の妻となったが逃げたので追いかけると、難波の比売碁曾社に坐す、阿加流比売神であり、日矛は、多遅摩国へ至り子孫を残した。(→ 天之日矛の系譜)(→ 但馬国出石郡の出石神社

難波の比売語曾社は、『延喜式』神名帳の摂津国東生郡の名神大社、比売許曾神社(大阪府大阪市東成区東小橋)に比定されます。

下照比売命を主神とし、『延喜式』臨時祭条に「比売許曾神社一座〈亦号下照比売〉」、『延喜式』四時祭条に「下照比売社一座〈或号比売許曾社〉」とみえ、比売語曾神は「下照比売」ともよばれることがわかります。

豊国国前郡の比売語曾社は、国東半島の北方約6kmの周防灘に位置する姫島の比売語曾社に比定されます。

『摂津国風土記』逸文(比売嶋松原条)に、応神朝に新羅国の女神が夫から逃げ、筑紫国の伊波比乃比売嶋に住んだ後、摂津の比売嶋に来たという類似伝承がみえます。

『紀』垂仁紀において、継体朝の大加耶王来朝に関わるとみられる角鹿地名起源伝承と、天之日矛と関わる比売語曾社伝承が交錯していることがわかります。

◇ 角鹿・国前の在地勢力は、『記』「国造本紀」によると同祖関係にある。

◇ 下照媛は、倭文神の関係神であるが、葛木倭文坐天羽雷命神社の鎮座地と天之日矛の末裔の拠点が一致する。(→ 葛木倭文坐天羽雷命神社

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