尾張大海媛と大和国葛上郡・尾張国海部郡

『紀』に、崇神天皇の妃として尾張大海媛がみえます。(『記』は、尾張連祖意富阿麻比売と表記)

同じ崇神妃である遠津年魚眼眼妙媛に付された「一に云はく、大海宿禰女八坂天某辺といふ」という注は、尾張大海媛のものと考えられています。

尾張大海媛は、名前から尾張国海部郡との関係が推測されますが、「天孫本紀」の尾張氏系譜では「亦名葛木高名姫命」と記され、「葛木」すなわち「葛城」を冠した亦の名を持ちます。

「天孫本紀」の尾張氏系譜は、途中で地域性が変化し、10世孫までは、大和葛城の勢力、11世孫以降は、尾張の勢力であることが指摘されます。(新井喜久夫「古代の尾張氏について(上)」(『信濃』21-1、1969年)))

尾張国海部郡と大和国葛上郡が密接な関係にあることが窺われます。

両郡には、「高尾張」という共通点もみられます。

『紀』神武即位前紀にみえる「高尾張邑」は、「或本に云はく、葛城邑といふ」(戊午年9月条)、「因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ」(己未年2月条)とあり、大和国葛上郡の地名であることがわかります。

いっぽう、『日本三代実録』貞観6年(864)8月8日条に、尾張国海部郡の甚目連公宗氏・甚目連公冬雄等の同族16人に高尾張宿禰を賜姓したことがみえます。

甚目連公の「甚目」は、尾張国海部郡の名刹甚目寺に因むものであることから、「高尾張」が大和国葛上郡とともに尾張国海部郡とも関わることがわかります。

尾張大海媛の背後に、大和国葛上郡・尾張国海部郡を繫ぐネットワークの存在が窺われ、一義的な関係勢力は神八井耳と推測されます。(→ 尾張大海媛と神八井耳

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