神八井耳と美濃・尾張

大海人皇子の湯沐(軍事的経済的基盤)は、美濃国安八郡にあり、湯沐令(統括者)は、神八井耳後裔氏族の多臣品治でした。

壬申の乱の際、大海人皇子は、まず最初に、村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広を美濃国へ派遣し、多臣品治に安八郡の兵を起こさせ不破道を塞ぎ、この戦略が功を奏し勝利に繋がりました。

また、美濃国安八郡に隣接する、尾張国海部郡には、多臣と同祖の神八井耳後裔の島田臣の拠点がありました。(→ 河内志紀と尾張を結ぶ神八井耳

2つの郡は、地勢上の特徴を有する一体的な地域を構成しています。

木曽三川と称される、木曽川・長良川・揖斐川の水系は、上流域では、北西から南東、北東から南西へと、山間地に大きく広がり、下流域においては、濃尾平野の西方に片寄り、三川すべての流路が美濃国安八郡・尾張国海部郡を通過します。

2つの郡に拠点をもつ神八井耳後裔勢力は、交通上の特性を利用し、木曽川・長良川・揖斐川上流域の越美山地の大碓命後裔勢力と関係を築くことができたと推察されます。(→ 大碓命後裔氏族の牟義公・守君

また、『紀』景行紀4年2月条に、美濃の泳宮において、景行天皇が八坂入彦皇子の娘、弟媛に求婚して断られ、弟媛の姉の八坂入媛を妃とする話がみえます。

「泳宮(くくりのみや)」は、木曽川支流の可児川支流、久々利川の上流域の岐阜県可児市久々利に比定されます。

当地は令制下の美濃国可児郡に属し、『万葉集』に次のようにみえます。

ももきね 美濃の国の 高北の くくりの宮に

日向尓 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山 美濃の山

なびけと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山

『万葉集』13-3242

飛騨川との分岐点に近い木曽川南岸の久々利川流域は交通の要衝とみられ、東濃地方の代表的な古墳が集中します。

一見すると、なぜ「泳宮」なのかと思われますが、八坂入媛の父、八坂入彦皇子は、崇神と尾張大海媛の子であり、「尾張大海」の名と妹に十市瓊入姫がいることからわかるように、「尾張大海媛」は神八井耳のネットワークの人と推察されます。(→ 尾張大海媛と神八井耳

「泳宮」の話も、木曽川河口域に拠点をもつ神八井耳の勢力範囲が木曽川の上流域に及んでいることを示しています。

『記』『紀』景行段は、大碓命や八坂入媛、美濃国造など美濃を舞台とする話が多くみられ、背景に神八井耳の存在が想像されます。

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