『紀』仁徳紀元年正月条に、仁徳天皇と平群木菟󠄁宿禰の命名伝承が記されています。
初め天皇生れます日に、木菟󠄁、産殿に入れり。
明旦に、誉田天皇、大臣武内宿禰を喚して語りて曰はく、
「是、何の瑞ぞ」とのたまふ。
大臣、対へて言さく、
「吉祥なり。復昨日、臣が妻の産む時に当りて、鷦鷯、産屋に入れり。
是、亦異し」とまうす。
爰に天皇の曰はく、
「今朕が子と大臣の子と、同日に共に産れたり。
並に瑞有り。是天つ表なり。
以為ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉の契とせむ」
とのたまふ。
則ち鷦鷯の名を取りて、太子に名けて、大鷦鷯皇子と曰へり。
木菟󠄁の名を取りて、大臣の子に号けて、木菟󠄁宿禰と曰へり。
是、平群臣が始祖なり。
仁徳と平群臣祖木菟󠄁宿禰は同じ日に生まれ、さらに出生の時に産屋に鳥が飛び込むという奇瑞がみられことから、鳥の名を交換して、仁徳は「鷦鷯」、木菟󠄁宿禰は「木菟」と名付けられたことがみえます。(「鷦鷯」はミソサザイ、「木菟」はミミズク)
仁徳と平群臣の祖の関係の深さが描かれています。
平群臣は、大和国平群郡の平群谷を本拠地とし、5世紀代を通して権勢を誇りますが、5世紀末に大王に討伐され王権中枢から消えます。(→ 大和国平群郡平群郷)(→ 顕宗・武烈の后妃と陵墓)