播磨国揖保郡の粒坐天照神社

粒坐天照神社(兵庫県たつの市龍野町日山)は、『延喜式』神名帳の播磨国揖保郡に名神大社としてみえ、祭神は、天照国照彦火明命とされます。

社伝によると、推古天皇2年関村(江戸時代の小神村の旧称)の長者伊福部連駁田彦が天照国照彦火明命の神勅により稲種を授けられて社を建て、稲種がよく実ったのでイイボ(粒・揖保)郡の起源となりました。

当初は北の的場山にありましたが、度々の兵火により大神(おがみ)の地(揖西町小神の古宮神社)に遷座し、天正9年(1581)蜂須賀正勝が龍野城主の時に現在地に移りました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:龍野市>日山村>粒坐天照神社)

小神(おがみ)の南に開ける谷間に古代山陽道が横断し、それに添って、揖保郡衙に推定される小神南遺跡・小神芦原遺跡、その東北方に、飛鳥時代の瓦の出土した小神廃寺があり、揖保郡の政治的中心地とみられます。

中世は上揖保庄に属し、『峯相記』(14世紀後半成立)に、小宅郷の万歳長者の舅となった揖保庄の四コフ長者の屋敷が男上にあって、未申(南西)の方角に氏寺を建立したため子孫が滅亡し、氏寺は南北朝期に大道寺と称したと伝えます。

「男上」は、小神とみられ、「大道寺」の「大道」は山陽道を示すと考えられています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:龍野市>揖保庄、龍野市>小神村、小神廃寺、小神芦原遺跡)

粒坐天照神社の鎮座地周辺について、次のような問題があります。

① 揖保郡揖保郷

『和名抄』播磨国揖保郡に揖保郷がみえます。

一般的に、郡名と同名の郷は、郡の政治的中心地であることが多いのですが、揖保郷は、たつの市揖西町小神ではなく、その南南東約4.0kmのたつの市揖保町揖保上・揖保中を遺称地とします。

式内社である揖保上の夜比良神社は、揖保川の夜比良の渡に関わる神社で、寛延元年(1748)龍野藩領村々寺社控帳(山下家文書)に、下揖保庄の氏宮の八尋大明神とみえ、当地は中世に下揖保庄に属していました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:龍野市>上村)

② 粒丘と中臣印達神社

『播磨国風土記』に、揖保郷の前身とされる揖保里がみえ、「揖保」の地名が「粒(いひぼ)山」に因むこと、また、「粒(いひぼ)丘」をめぐる天日槍と葦原志挙乎の伝承が記されます。

「粒丘」は、揖保上に東に位置する中臣(なかじん)の小丘ナカジン山とされ、東麓に、名神大社の中臣印達神社が鎮座します。

中臣印達神社の祭神は、紀伊国の伊太祁曾神社の五十猛神とされますが、いっぽうで、印達神は、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社の射楯神を示します。(→ 播磨国飾磨郡の射楯兵主神社

『新抄格勅符抄』所引大同元年(806)牒に、中臣神が神封5戸を有していたことがみえます。

また、『和名抄』播磨国揖保郡中臣郷は当地に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:龍野市>中陣村<中臣印達神社、播磨国>揖保郡>中臣郷)

③ 浦上里と阿曇連

『播磨国風土記』に、難波の浦上から阿曇連百足が移住してきたことに因む「浦上里」がみえ、『和名抄』播磨国揖保郡の浦上郷の前身とされます。

たつの市揖保川町浦部を遺称地とし、中世浦上庄が成立しました。

中臣に南接する揖保町西構は、文禄3年(1594)6月5日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に、揖西郡浦上内の肩書付きで西構村とみえ、浦上庄に属していたことがわかります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:龍野市>西構村、播磨国>揖保郡>浦上郷)

①〜③をみてくると、播磨国揖保郡の政治的中心地であった粒坐天照神社の旧社地小神は、「粒坐」の表記から、『播磨国風土記』の「粒山」「粒丘」のある揖保里ではないかと思われますが、揖保里の後継の揖保郷は、3.5km南方のたつの市揖保町揖保上・揖保中を遺称地とし、「粒丘」に比定されるナカジン山には、別の名神大社である中臣印達神社が鎮座します。

中臣印達神社の地は、『和名抄』中臣郷(『播磨国風土記』になし)に比定されますが、東に接する揖保上は下揖保庄、南に接する西構は浦上庄に属し、当地における中臣郷、揖保郷、浦上郷の関係が判然としません。

これらのことをどのように考えるのか。

『播磨国風土記』揖保郡大田里の記述に注目します。(大田里の比定地の揖保郡太子町太田は、中臣印達神社の東5.8km)

呉勝が紀伊国名草郡大田村、摂津国三嶋賀美郡大田村をへて当地に来たことがみえ、3地域間の交通が窺われますが、その他にも共通する属性が認められます。

摂津国の大田は島上(三嶋賀美)郡ではなく島下郡にあって、中臣大田連の拠点であり、南接する西河原に新屋坐天照御魂神社が鎮座し、かつて境内社であった磯良神社は阿曇連の奉祭神です。

紀伊国名草郡の大田は、伊太祁曾神社の旧社地とされる日前宮の地に西接し、日前神は、『紀』天石屋神話に鏡作坐天照御魂神社の奉祭勢力と密接な関係が認められます。

紀伊国名草郡・摂津国島下郡・播磨国揖保郡を結ぶ交通のうえに、粒坐天照神社と中臣印達神社は相互に関係して成立した可能性があります。

◇ 『播磨国風土記』に、日下部里の立野で土師弩美宿祢が亡くなり出雲の墓屋が作られたことがみえ、的場山麓の宿毛塚(たつの市龍野町中霞城)に比定されますが、当地は、中世上揖保庄に属し、粒坐天照神社旧社地の東1.1kmにあたります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:龍野市>立野・龍野)

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