『延喜式』神名帳の摂津国島下郡に、名神大社として「新屋坐天照御魂神社三座」がみえ、大阪府茨木市の西河原3丁目の天照御魂神社、西福井3丁目の新屋坐天照御魂神社、宿久庄5丁目の新屋坐天照御魂神社の3社に比定されます。
「新屋」の地名は、文和元年(1352)2月18日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)の「新屋村」の坪付によると、西河原の天照御魂神社付近を示し、『和名抄』摂津国島下郡新野郷は、天照御魂神社を中心とする安威川に沿った地域と推定されます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:茨木市>西河原村>天照御魂神社、茨木市>福井村>新屋坐天照御魂神社、摂津国>島下郡>新家郷)
新屋坐天照御魂神社の鎮座地に関して、次のような点が注目されます。
① 中臣大田連・中臣藍連
西河原に北接する茨木市の太田地区は、式内社の太田神社が鎮座し、『姓氏録』摂津国神別に「中臣大田連、同神(天児屋根命)十三世孫御身宿禰後也」とみえる中臣大田連の本拠地とされます。
太田の西北にあたる安威地区は、式内社の阿為神社が鎮座し、『姓氏録』摂津国神別に「中臣藍連、同神(天児屋根命)十二世孫大江臣後也」とみえる中臣藍連の本拠地とされます。
太田・安威・十日市・耳原の地区は、『和名抄』摂津国島下郡安威郷に比定されます。
また、中臣鎌足について、『紀』皇極紀3年正月条に「疾を称して退でて三嶋に居り」と記され、『多武峰縁起』などに安威山に葬られたとみえることから、江戸期に、安威地区の丘陵上の将軍塚古墳が鎌足古廟あるいは大織冠古廟とよばれていました。
しかし、その築造年代は6世紀中頃とみられ、安威地区北方の茨木・高槻市境界の阿武山南斜面中腹に立地する阿武山古墳(大阪府高槻市奈佐原・茨木市桑原)から、夾紵棺に、玉枕をしき金糸をまとった横臥伸展葬された年齢60歳、身長160cmと推定される男性の遺骸がみつかり、被葬者を鎌足とする説が有力となっています。
西河原の天照御魂神社の北方、北摂山地南麓の富田台地から将軍山丘陵にかけての安威川両岸の地は、中臣氏の重要な拠点でした。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:摂津国>島下郡>新家郷、島下郡>安威郷、高槻市>奈佐原村>阿武山古墳)
② 三島藍野陵
『紀』継体紀25年12月条に、天皇を「藍野陵に葬る」とみえ、『記』に「三島の藍陵」、『延喜式』に「三島藍野陵」とあります。
継体陵は、茨木市太田3丁目の茶臼山古墳に治定されますが、東北東1,5kmにある今城塚古墳(高槻市郡家新町)をあてる見解が有力となっており、古代の「安威」「藍」とよばれる地域は、島下郡安威郷の東方、島上郡の芥川水系女瀬川流域に及ぶことがわかります。
三島藍野陵は、当該地と継体の関係の深さを示し、①の中臣氏の拠点との重複が注目されます。
また、『紀』安閑紀元年7月条・閏12月条に、三嶋竹村屯倉をめぐる県主飯粒と大河内直味張の話がみえます。
三嶋竹村屯倉は、島下郡安威郷に属する茨木市耳原・桑原に比定され、継体崩御から間もない時期に、安威の地に変動が起きたことを示します。
③ 三嶋溝橛耳
西河原の天照御魂神社の東南東2.6kmに、島下郡の式内社の溝咋神社(茨木市五十鈴町)が鎮座します。
溝咋神社は、『紀』神代紀・神武紀にみえる、三嶋溝橛耳の娘と事代主神の通婚によって生まれた子が神武天皇の后となる伝承の淵源の地で、当地から大和・紀伊を経由し土佐へ至る事代主神後裔氏族による交通体系が認められます。(→ 三嶋溝橛耳と媛蹈鞴五十鈴媛)(→ 三嶋溝橛耳と事代主神後裔氏族)
溝咋神社は、江戸時代に、馬場村・目垣村・十一村・二階堂村・平田村からなる溝杭郷の鎮守でした。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:茨木市>馬場村>溝咋神社)
安威川は、天照御魂神社の鎮座する西河原で茨木川を分岐しますが、分岐点の下流が溝杭郷となります。
『和名抄』の島下郡は、新家・安威・宿久・穂積の4郷からなり、それぞれの比定地からみると、近世の溝杭郷は新家郷に属していたと推測されます。
①②③から、新屋坐天照御魂神社の鎮座地は、事代主神・神武后をめぐる三嶋溝橛耳の伝承地、6世紀前半の継体の重要拠点、7世紀後半の中臣連の重要拠点という3つの属性を合わせ持つことがわかります。
新屋に、天照御魂神が奉祭されたのは上記のどの時点なのかが注目されます。(→ 天照御魂神と素盞鳴と紀直)