大和国城上郡の他田坐天照御魂神社

『延喜式』神名帳にみえる、大和国城上郡の他田坐天照御魂神社は、奈良県桜井市太田に鎮座します。

古くは春日神社と称し、鎮座地の「太田」が「他田」と音(タダ)が相通ずることから、『大和志』は、当地を古代の「他田」として式内社にあて、以後、社名・祭神が変更されました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:桜井市>三輪・纏向地区>太田村>他田坐天照御魂神社)

至近に、纏向石塚古墳・纏向勝山古墳・纏向矢塚古墳があり、纏向古墳群の一角にあたります。

「他田(おさだ)」は、『紀』敏達紀4年6月是年条に「遂に宮を訳語田に営る。是を幸玉宮と謂ふ」、『記』敏達記に「他田宮」、『日本霊異記』上巻第3縁に「敏達天皇〈是れ磐余訳語田宮に国食しし渟名倉太玉敷命なり〉」とみえる、敏達天皇の磐余訳語田幸玉宮の地を示します。

いっぽう、桜井市太田を磐余とみるには無理があることから、『桜井町史』は、桜井市戒重の春日神社を、式内社の他田坐天照御魂神社とします。

中世の長田庄・他田庄の地である桜井市戒重の春日神社は、他田宮と称していたと伝え、また、奈良県山辺郡山添村勝原の八柱神社蔵の大永4年(1524)銘の湯釜に「戒重村 長田宮」と刻されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:桜井市>桜井地区>戒重村>春日神社、戒重村>訳語田幸玉宮)

他田坐天照御魂神社が敏達天皇の訳語田幸玉宮の地に奉祭されることに注目します。

『紀』敏達紀によると、4年6月是年条の訳語田幸玉宮の記事の後、4年11月条に皇后広姫の薨去、5年3月条に豊御食炊屋姫の立后、6年2月条に日祀部・私部の設置の記事が続いて記されます。

敏達を以て、5世紀後半から継続する、和珥春日の特殊な后妃の血統が終焉しており、敏達紀の一連の記事は、新たな后妃制度の開始を示します。(→ 和珥春日の后妃

また、継体の手白香皇女立后の事情から、和珥春日の特殊な血統を継ぐ女性との結婚は、倭王即位の必須条件とみられ、敏達朝の后も同様の性格を持つことが推測されます。

なぜ、特定の女性との結婚が即位を認証することになったのか、和珥春日の后妃の記述からは窺い知ることができませんが、敏達の立后に際し、日祀部が設定されていることに注目します。

8世紀の史料に、海上国造他田日奉部直という氏族がみえ(天平20年(748)海上国造他田日奉部直神護解(正倉院文書)、『万葉集』20-4384、『続日本紀』延暦4年(785)正月27日条)、下総国海上郡の郡領氏族の先祖がその任にあたったことがわかります。

岡田精司氏は、『太神宮諸雑事記』の養老6年癸亥3月3日条にみえる、大和国宇陀郡の神戸において、「郡日奉」氏の者が代々神宮への恒例・臨時の官幣奉献にあたって「執幣丁」を勤め、それを妨げる他氏の者が流刑に処せられる程の重い任務であったという記述から、「日奉」が天照大神と深く関係することを指摘されます。(岡田精司「日奉部と神祇官先行官司」(『古代王権の祭祀と神話』1970年))

「日の御子」ともよばれる倭王は、特殊な日神の祭祀者の女性との婚姻を経て認証されたのではないか。

『紀』敏達紀の一連の記述は、訳語田幸玉宮において、それまでとは異なる日神による倭王認証の儀式が行われたことを示します。

では、なぜ、訳語田(他田)に奉祭される神が天照御魂神なのか。

天照御魂神と天照大神の関係が注目されます。(→ 天照御魂神)

目次