『延喜式』神名帳の大和国添上郡に、和爾坐赤坂比古神社と和尓下神社がみえます。
和爾坐赤坂比古神社は、奈良県天理市和爾町北垣内に鎮座し、阿田賀田須命・市杵島比売命を祭神とします。
和爾下神社は、天理市櫟本町宮山と大和郡山市横田町の2カ所に鎮座し、ともに大己貴・素盞鳴・櫛稲田姫を祭神とします。
『大和志』は、「和爾下神社二座〈一座在櫟本村号曰上治道天王、近隣五村共預祭祀、一座在横田村号曰下治道天王、十一村共預祭祀〉」と記し、『延喜式』の「和尓下神社二座」のそれぞれに当てます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:天理市>櫟本地区>和爾村>和爾坐赤坂比古神社、櫟本地区>市ノ本村>和爾下神社、大和郡山市>横田村>和爾下神社)
和爾坐赤坂比古神社の南南西900mに、櫟本の和爾下神社が鎮座し、その2.5km西に、横田の和爾下神社が鎮座する位置関係にあり、一帯は、古代豪族和珥氏の本拠地とされます。
寿永3年(1184)顕昭筆写の『柿本朝臣人麻呂勘文』に、櫟本の和爾下神社の神宮寺であった柿本寺に、柿本人麻呂の墓所があったことがみえますが、同寺は、室町期に現櫟本町高品の櫟本小学校の西方に移転し、明治初年に廃寺となっています。(柿本氏は和珥氏の一族です)
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:天理市>櫟本地区>市ノ本村>柿本寺跡)
また、櫟本の和爾下神社から東方白川池畔に至る丘陵上に展開する、東大寺山古墳、和爾下神社古墳、墓山古墳、赤土山古墳などからなる、東大寺山古墳群は、和珥氏の奥津城とみられます。
特に、東大寺山古墳から出土した、後漢霊帝の中平(184~189)の紀年銘のある、鳥首飾のある銅製環頭を着装した総長110cmの直刀は学会の注目を集めています。(当該刀は、中平6年(189)に公孫度が遼東太守を拝命した際に後漢の霊帝から授かったもので、公孫氏が魏に滅ぼされた後、新たに魏と通交を開始した邪馬台国の使者に与えられた可能性が指摘されます)
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:天理市>櫟本地区>東大寺山古墳群、櫟本地区>市ノ本村>東大寺山古墳)
和爾坐赤坂比古神社の祭神、阿田賀田須(アタカタス)に注目します。
阿田賀田須は、「地祇本紀」に大己貴神、亦の名は大国主神の7世孫として「阿田賀田須命 和邇君等祖」とみえ、また、吾田片隅(アタカタスミ)ともいい、『姓氏録』に後裔氏族として、宗形朝臣、和仁古、宗形君の3氏がみえます。
和邇君、和仁古という「わに」を称する氏族が阿田賀田須を始祖とすることがわかります。
いっぽう、和珥臣氏の一族は、『記』『紀』孝昭系譜において、孝昭天皇皇子の天足彦国押人の後裔とされ、阿田賀田須後裔氏族との関係が問題となります。
和珥臣氏について、5世紀後半から6世紀前半にみえる后妃の特殊な血統、応神配下の難波根子武振熊、猿女君との関係など複数の重要な属性がみられ、問題の切り分けが必要と思われます。(→ 和珥春日の后妃)(→ 「海部氏系図」と難波根子武振熊・倭直)
注目すべき点は、宗形朝臣・宗形君が阿田賀田須の後裔であることです。
『記』『紀』神代段のアマテラスとスサノヲのウケヒ、仲哀段・神功段の応神誕生、履中段の住吉仲皇子の乱の3伝承は、本来的には相互関連がないはずですが、看過できないほどの共通点がみられます。
そのなかで、ウケヒ神話に宗像君(宗形君)の奉祭する筑紫3神が登場し、応神誕生伝承に武振熊が記され、履中段に筑紫3神の祟りの話がみえることが注目されます。