神武の最初の妃の名は、『記』に「阿多小椅君が妹、名は阿比良比売」、『紀』に「日向国の吾田邑の吾平津媛」とあり、「阿多(吾田)」と「阿比良(吾平)」という2つの地名を含んでいます。
「阿多」「吾田」は、薩摩国阿多(あた)郡を示します。
薩摩半島西岸の万之瀬川下流域から野間半島に及ぶ地域で、現在の鹿児島県南さつま市金峰町と加世田にあたります。
万之瀬川河口は、1802年(享和2)の大洪水による流路変更以前、吹上浜の砂州がのびる入江で、薩南諸島・琉球諸島を経て大陸へ至る航路の港津として繁栄し、平安時代末期の阿多郡司忠景のような権力者を輩出しました。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlege):鹿児島県:薩摩国>阿多郡、加世田市>万之瀬川)
『記』に神武妃の兄としてみえる「阿多小椅君」も、当該港津を権力基盤とする古代の雄族と思われます。
いっぽう、「阿比良」「吾平」は、大隅国姶羅(あいら)郡を示し、大隅半島のほぼ中央部、現在の鹿児島県鹿屋市、東串良町にあたります。
肝属川河口は、中世以前、柏原の砂州がのびる入江で、「波見浦」「唐仁浦」とよばれる海上交通の拠点として繁栄しました。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlege):鹿児島県:大隅国>姶羅郡、肝属郡>肝属川)
肝属川下流域に、塚崎古墳群(鹿児島県肝付町野崎)・唐仁古墳群(鹿児島県東串良町新川西)があることに注目します。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlege):鹿児島県:肝属郡>高山町>野崎村>塚崎古墳群、東串良町>新川西村>唐仁古墳群)
南岸の塚崎古墳群は、4世紀から5世紀の築造と推定され、古墳59基(前方後円墳5基・円墳54基)、地下式横穴墓29基からなり、51号墳は日本最南端の前方後円墳として知られます。
北岸の唐仁古墳群は、5世紀の築造と推定され、古墳130基(前方後円墳3基・円墳119基・不明8基)からなり、地下式横穴墓は確認されていません。
4〜5世紀に既に、当該地域の勢力が倭王権と結びつきがあったことがわかります。
東シナ海に臨む薩摩半島の阿多は北緯31度25分、太平洋に臨む大隅半島の姶羅は北緯31度21分とほぼ同緯度にあり、双子のような位置関係にある交通の要衝です。
神武妃の名に「阿多」と「姶羅」の2つの地名が含まれることから、一義的に関わるとみられる「阿多小椅君」が、海上交通を通じ、薩摩半島・大隅半島の2つの重要港津を支配下においていたことが想像されます。
「阿多小椅君」は、『紀』神代紀第10段本文(海幸山幸神話)に「吾田君小橋」と記され、火闌降(ホスソリ)(海幸)の後裔とされます。
「阿多小椅君」は、神武伝承と海幸山幸神話の双方に深く関与することがわかります。(→ 神武と海幸山幸神話の相関性)