『紀』5世紀前半の信憑性– category –
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許波多神社とオシホミミ
許波多神社は、京都府宇治市五ヶ庄古川と木幡東中の2カ所に鎮座し、『延喜式』神名帳では、山城国宇治郡の名神大社となっています。 所在地から、応神妃の和珥臣祖日触使主女宮主宅媛を輩出した一族の奉祭神と思われます。(→ 和珥臣祖日触使主女宮主宅媛... -
矢田皇女と矢田部
応神は、木幡で出会った和珥臣祖日触使主女宮主宅媛とのあいだに3人の子をもうけましたが、そのうちの1人である矢田皇女は仁徳の妃となりました。 『記』に「八田若郎女の御名代と為て、八田部を定めき」とみえ、矢田皇女のために「矢田部」が定められたこ... -
大山守皇子の謀反と菟道稚郎子の悲劇
『記』に、応神が3人の子たちに次のように言ったことがみえます。 大山守命は、山海の政を為よ、 大雀命は、食国の政を執りて白し賜へ、 宇遅能和紀郎子は、天津日継を知らせ。 菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)を後継の王とすること、大山守皇子(大山守命)... -
筑紫之米多君
『記』若野毛二俣王系譜にみえる、大郎子(意富々等王)は、三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等の祖と記されます。 大郎子(意富々等王)は、継体天皇の高祖父にあたります。 7氏のうち、三国君・波多君・息長坂君・酒人... -
『記』若野毛二俣王系譜
『記』応神記に、若野毛二俣王の系譜がみえます。 冒頭の后妃子女の系譜とは別に、応神記の最後に記され、異例の形式となっています。 系図にすると、次のとおりです。 応神 ├────若野毛二俣王 ┌─大郎子(意... -
『紀』允恭紀の明石の真珠伝承
『紀』允恭紀14年9月条に、明石の真珠の話がみえます。 天皇が淡路島で狩りをしたところ、獲物は沢山いるのに不猟で、占うと島の神は「明石の海の底にある真珠を我に祀れ」と言いました。 阿波国長邑の男狭磯という海人が海の底に光る大鰒を引き上げて息絶... -
隼別皇子と雌鳥皇女の逃避行
『記』『紀』に、雌鳥皇女と隼別皇子の逃避行の話がみえます。雌鳥皇女は、応神と和珥臣祖日触使主女宮主宅媛の子で、菟道稚郎子と矢田皇女の妹にあたります。 『紀』仁徳紀40年2月条によると、仁徳は、雌鳥皇女へ求婚を伝えるため、使者として、隼別皇子... -
和珥臣祖日触使主女宮主宅媛と応神の結婚
『記』『紀』に、応神と和珥臣祖日触使主女宮主宅媛の結婚の記述がみえます。 『記』によると、応神は、宮主宅媛と木幡村で出会いました。 木幡村とは、京都府宇治市木幡であり、当時、南西に、巨椋池が広がり、木幡の南には、淀川水運と古北陸道を繋ぐ結... -
岡屋津
曾て、京都盆地の南部に、巨椋池という、巨大な淡水湖がありました。 宇治川・木津川・桂川の3河川が流入して、淀川が流出するという地形であることから池に面する津は、河川交通の要衝として繁栄しました。 なかでも、池の東端部の岡屋津は、淀川水運と... -
近江国坂田郡の允恭后妃
『記』『紀』に、近江国坂田郡出身の允恭天皇の后妃がみえます。 『記』允恭記に、「意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命」と記され、『記』応神記の若野毛二俣王の系譜の「忍坂之大中津比売命」、『上宮記』逸文の「践坂大中比弥王」にあたることがわかり...
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