雄略朝の歯田根討伐と餌香

『紀』雄略紀13年3月条に、歯田根討伐の記述がみえます。

狭穂彦が玄孫歯田根命、窃に采女山辺小嶋子を姧せり。

天皇、聞しめして、歯田根命を以て、物部目大連に収付けて、責譲はしめたまふ。

歯田根命、馬八匹・大刀八口を以て、罪過を祓除ふ。

既にして歌して曰はく、

 山辺の 小嶋子ゆゑに 人ねらふ 馬の八匹は 惜しけくもなし

目大連、聞きて奏す。

天皇、歯田根命をして、資財を露に餌香市辺の橘の本の土に置かしむ。

遂に餌香の長野邑を以て、物部目大連に賜ふ。

狭穂彦の玄孫の歯田根は、采女山辺小嶋子を犯した罪を償うため、馬8匹・大刀8口を差し出すことになりましたが、「小嶋子の為なら馬8匹は易いものだ」と軽口を叩いたことが物部目大連を通して雄略の耳に入り、歯田根は「餌香市辺」の橘の木の下に資財をすべて並べ没収されることになり、物部目大連は褒美として「餌香の長野邑」を賜ったとあります。

「餌香(えが)」は、「会賀」「恵賀」「恵我」「衛我」とも書かれ、「餌香川」が石川下流の名称とされ、「恵我長野西陵(仲哀天皇陵)」「恵我長野北陵(允恭天皇陵)」「恵我藻伏崗陵(応神天皇陵)」の所在地を含み、松原市の東部から羽曳野市の北端にかけての地域を恵我と通称したことを考慮すると、石川下流左岸から3つの古墳所在地を含み、大塚山古墳(羽曳野市と松原市にまたがる)辺りまでを指したと推定されます。

「餌香の長野邑」は、『和名抄』河内国志紀郡長野郷にあたり、「恵我長野西陵」がミサンザイ古墳(大阪府藤井寺市藤井寺)、「恵我長野北陵」が市野山古墳(藤井寺市国府)に治定されることに従うと、近世の古室・沢田・岡・藤井寺の各村一帯に比定されます。

「餌香市」は、石川下流の名称とみられる「餌香川」左岸の国府にあったと推測されます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:河内国>志紀郡>長野郷、藤井寺市>会賀)

歯田根の財産を並べたのが「餌香市」であり、物部目大連が「餌香の長野邑」を褒美として得たとあるのは、それまで歯田根の支配下にあった「餌香」を、雄略と「トモ」が簒奪したことを示していると思われます。

また、『記』にみえる、志幾大県主(志紀県主)の邸宅を雄略が襲う話との関係が注目されます。

邸宅は志紀県主の本拠地に所在したとみられますが、志紀県主が5世紀代の河内国志紀郡の最有力在地勢力であったことから、『和名抄』河内国志紀郡志紀郷すなわち、藤井寺市大井あるいは惣社・国府をも含む地域の可能性があります。

『紀』の歯田根討伐と『記』の志幾大県主邸宅の話は、同じ地域を舞台とすることになります。

当該地域は、いわゆる古市古墳群の地であり、志紀県主、品它真若王家など、5世紀前半の王権を構成する重要勢力の拠点が、5世紀後半、雄略と「トモ」に徐々に掌握されていったことが窺われます。

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