平群臣と角鹿の塩

『紀』武烈即位前紀に、平群真鳥の最期について次のように記されます。

真鳥大臣、事の済らざらむことを恨みて、

身の免れ難きことを知りぬ。

計窮り望絶えぬ。

広く塩を指して詛ふ。遂に殺戮されぬ。

其の子弟さへに及る。

詛ふ時に唯角鹿の塩のみ忘れて、詛はず。

是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食とし、

余海の塩は、天皇の所忌とす。

武烈の軍に囲まれた平群真鳥が死の間際に「塩」に呪いをかけ、呪詛し忘れた角鹿の「塩」だけは天皇のものになったことがみえます。

この話の本質は、「馬」ではないかと思います。

「馬」の飼育には、多量の「塩」を必要とします。

『紀』武烈即位前紀に、平群臣討伐の契機となった事件のなかで、平群真鳥の家に「官馬」を請いに、武烈の遣使が出向く場面がみえ、平群真鳥が「官馬」を飼養していたことが窺われます。

また、『姓氏録』『紀氏家牒』の記述からも平群臣と「馬」の関係が窺われます。

『姓氏録』大和国皇別の馬工連(うまみくひのむらじ)は、平群朝臣同祖、平群木菟宿禰の後裔とあります。

馬工連は、馬御樴とも書き、馬を繋ぐ樴(杙)の製作や広く馬を飼うことに関与する氏族です。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年、349頁)

『姓氏録』河内国皇別の額田首は、早良臣同祖、平群木菟宿禰の後裔であり、「父の氏を尋がずして、母の氏の額田首を負へり」と記されます。

馬工連・額田首について、『紀氏家牒』に次のようにみえます。

額田早良宿禰男額田駒宿禰、平群県在馬牧択駿駒養之、献天皇、勅賜姓馬工連、令掌飼、故号其養駒之処曰生駒。〈又云、額田駒宿禰男□馬工御樴連〉

平群真鳥大臣弟額田早良宿禰家平群県額田里。不尋父氏負(母氏ヵ)姓額田首

額田首の祖、額田早良宿禰は、平群真鳥大臣の弟であり、平群県額田里に家があること、また、馬工連の祖、額田駒宿禰は、額田早良宿禰の子であり、平群県の馬牧で馬を飼養して天皇に献上し、馬工連の姓を賜ったことが記されます。

平群臣一族の馬工連・額田首が、「平群県額田里」(『和名抄』大和国平群郡額田郷、奈良県大和郡山市額田部寺町の額安寺周辺)において、在地勢力の額田部連と連携して、馬の飼育を行っていたことがわかります。

(仁藤敦史「額田部氏の系譜と職掌」森公章「額田部氏の研究」(『国立歴史民族博物館研究報告』88、2001年))

『紀』武烈即位前紀の「塩」の話は、平群臣滅亡によって「塩」の供給が滞り、馬飼の活動、馬の交通体系に混乱が生じたことを示唆します。

いっぽう、馬の飼育に関して、河内国河内郡・讃良郡の河内馬飼が著名ですが、当該地は、平群臣の本拠地である大和国平群郡平群郷と生駒山地の東麓・西麓の位置関係にあり、しかも、河内郡に、額田部連の拠点とみられる額田郷が所在します。

河内馬飼の経営にも、平群臣が関与していたと推測されます。

『紀』継体即位前紀によると、6世紀初め、即位要請を断っていた継体は、河内馬飼首荒籠の説得により即位を受け入れます。

河内馬飼首荒籠の要請は、平群臣滅亡による「馬」の危機と関わるものではなかったかと想像します。(→ 河内馬飼と継体)

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