『和名抄』にみえる大和国平群郡平群郷は、生駒山地主部と矢田丘陵のあいだを竜田川が南流する平群谷に比定され、5世紀代の雄族、平群臣の本拠地として知られます。
平群谷の竜田川東岸、奈良県生駒郡平群町上庄に、平群坐紀氏神社が鎮座します。
平群坐紀氏神社は、大和国平群郡の名神大社で紀氏の奉祭神とみられます。
貞観12年(870)の某郷長解写(正親町伯爵旧蔵文書)に、「紀氏神地」が現社地より2.5kmほど南、平群町椿井付近にあったと記されます。(『日本歴史地名大系(JapanKnowlegde)』奈良県:生駒郡>平群町>上ノ庄村>平群坐紀氏神社)
また、平群坐紀氏神社近く、平群町三里の三里古墳(6世紀後半)に、和歌山県紀ノ川下流域の古墳の特有の型式である石棚がみられます。
さらに、『記』孝元系譜に、平群臣の祖である平群都久宿禰は、紀臣・角臣・坂本臣の祖である紀角宿禰と兄弟とされ、平群谷の勢力と茅渟の勢力の密接な関係が窺われます。
いっぽう、竜田川が大和川に流入する地点の対岸では、葛城山麓から北流してきた葛下川が流入します。
葛下川下流域は「片岡の葦田」とよばれ、葛城襲津彦後裔の葦田宿禰の拠点でした。
地形から見て、平群臣は、片岡の葛城襲津彦後裔勢力とも密接な関係にあったことが推測され、『紀』に平群木菟宿禰と葛城襲津彦が共同して対外交渉にあたった記述がみえることもそのことを示します。(→ 平群木菟宿禰・葛城襲津彦と弓月君伝承)
平群・片岡・茅渟の勢力について、5世紀後半から様々な変化が見られます。
坂本臣が失策を犯して討伐され、紀臣は内紛が生じて分裂し、一派は周防に移住し角臣となります。(→ 紀大磐宿禰と紀臣の分裂)(→ 坂本臣祖根使主討伐と難波吉士の賜姓)
また、平群臣も大王に討伐され滅亡に至りますが、討伐した大王を背後で支持していたのは片岡の勢力とみられます。(→ 顕宗・仁賢の系譜と葦田宿禰)