『紀』仁徳紀2年3月条に「磐之媛命を立てて皇后とす」と記され、『紀』履中即位前紀に「葛城襲津彦の女なり」、『記』に「葛城之曾都毘古が女、石之日売命〈大后〉」とあり、仁徳天皇は葛城襲津彦の娘を大后としたことがわかります。
『紀』仁徳紀30年9・10・11月条に、磐之媛が、仁徳が矢田皇女へ執心することに腹を立て、山背の筒城(綴喜)に居を移す話がみえます。
『記』にも、同様の話が記され、「箇木の韓人、名は奴理能美が家」に住んだことがみえます。
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上ればあをによし
奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ我が見が欲し国は
葛城 高宮 我家の辺
出身地ではなく、綴喜を選んだ理由に注目します。
『紀』によると、綴喜の家では、的臣祖口持臣の妹、国依媛が、磐之媛の側に仕えています。(異伝として、和珥臣祖口子臣と付記され、『記』は丸邇臣口子の妹口日売と記します)
的(いくは)臣は、『姓氏録』『記』に、葛城襲津彦の後裔とされ、磐之媛の居住先は、山城国綴喜郡の葛城襲津彦の拠点であったことが推測されます。
『紀』仁徳紀35年6月条・37年11月条によると、磐之媛は、山城国の筒城宮で薨去し、乃羅山(ならやま)に葬られました。
『延喜式』諸陵寮に「平城坂上墓〈磐之媛命、在大和国添上郡、兆域東西一町、南北一町、無守戸、令楯列池上陵戸兼守〉とみえ、奈良県奈良市佐紀町の水上池の北に隣接するヒシアゲ古墳に治定されています。