坂合黒彦皇子と八釣白彦皇子は、雄略即位前の内乱で殺されました。(→ 眉輪王と葛城円大臣討伐)
『紀』によると、坂合黒彦皇子と坂合部連贄宿禰の遺骸は、「新漢(いまきのあや)のツキ本の南の丘」に埋葬されたとあり、坂合黒彦皇子墓について、『大和志』は、今木谷(奈良県吉野郡大淀町今木)に治定します。
坂合黒彦皇子は、『記』允恭段に、境之黒日子王と表記され、「境」については、軽境原宮・軽境岡宮(『記』孝元段・懿徳段)とある「軽の境」、すなわち、軽の衢(ちまた)の地(奈良県橿原市大軽町)が知られています。
至近に、宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵・倭彦命身狭桃花鳥坂墓が所在し、桃花鳥(ツキ)坂の地(奈良県橿原市鳥屋町)でもあります。
八釣白彦皇子の「八釣」については、奈良県高市郡明日香村八釣・橿原市下八釣町が想起され、小治田(奈良県高市郡明日香村豊浦)で生き埋めにされたという『記』の記述に符合します。
黒彦・白彦は、一体性が感じられ、前者は、畝傍山山麓から軽・身狭を拠点とする勢力、後者は、豊浦から香久山西麓を拠点とする勢力を示しています。
◇ 桃花鳥坂(築坂)は、神武東征伝承において、大伴連祖道臣命が宅地を賜った土地とされる。(→ 築坂・久米・竹田と大伴連)