平群木菟宿禰・葛城襲津彦と弓月君伝承

『紀』応神紀14年是歳条と16年8月条に、弓月君の渡来伝承がみえます。

百済から倭国に向かった弓月君が、新羅人の妨害にあって加羅に留め置かれたので、葛城襲津彦が派遣されましたが、3年たっても帰還しませんでした。

平群木菟宿禰・的戸田宿禰の率いる支援部隊が加羅に送られ、新羅軍との戦いに勝利し、葛城襲津彦とともに弓月の人夫を連れて帰還しました。

的戸田宿禰について、『紀』仁徳紀12年8月条に、的臣祖盾人宿禰が高麗が献上した鉄の的を射たので、的戸田宿禰の名を賜ったことが記され、17年9月条に、的臣祖砥田宿禰とみえます。

的臣は、『姓氏録』山城国皇別・河内国皇別・和泉国皇別に、葛城襲津彦の後裔氏族とされ、『紀氏家牒』には、盾人宿禰は葛城襲津彦の子とあります。

平群木菟宿禰と葛城襲津彦が協力して(軍事も含めた)対外交渉にあたっていたことがわかります。

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