天日槍と淡路島

『紀』垂仁紀3年3月条一云に、天日槍は、垂仁天皇から「播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑の2つの邑は好きなように住んでよい」と言われたものの、「諸国を巡って気に入った所に住みたい」と、菟道河を遡り、近江国吾名邑にしばらく住み、若狭国を経て、但馬国に落ち着いたことがみえます。

天日槍は「淡路島の出浅邑」に住まなかったようですが、『紀』垂仁紀88年7月条に、天日槍の神宝の一つである「出石の小刀」が淡路島に祀られた話がみえます。

天日槍の曽孫清彦は、但馬にある天日槍の神宝を、垂仁天皇に献上することになりました。

清彦は、羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・日鏡一面・熊の神籬一具は献上しましたが、「出石の刀子」だけは袍のなかに隠しました。

しかし、垂仁天皇との対面時、袍から「出石の刀子」がポロリと出て、献上することになりました。

その後、朝廷の宝器庫から「出石の刀子」が消えてなくなります。

清彦に尋ねると、「小刀は、昨夕、私の家に戻って来ましたが、今朝また居なくなりました」と答えたので、垂仁天皇は、再度求めることはなかったそうです。

さらに、次のような記述がみえます。

是の後に、出石の刀子、自然に淡路嶋に至れり。

其の嶋人、神なりと謂ひて、刀子の為に祠を立つ。

是今に祀らる。

「出石の刀子」は淡路島に現れ、地元の人によって祠に祀られたと記されます。

「出石の刀子」の祭祀地が、垂仁天皇から与えられた「出浅邑」なのかは判然としないのですが、2つの伝承は関係があるのではないかと考えられています。

『淡路常磐草』(享保15年(1730)成立の淡路郷土史研究の源泉とされている地誌)によると、「出浅邑」は、兵庫県洲本市由良の南端、生石に比定され、「出石の刀子」を祀った「祠」は、生石神社とされます。

当該地は、淡路島の南東隅に位置し、内海(大阪湾)と外洋(紀伊水道)の接点にあたり、友ヶ島水道を挟んで、和歌山県和歌山市加太に対します。

「出浅邑」を、淡路市志築、洲本市五色町都志とする説もあります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県>洲本市、洲本市>由良湊>由良)

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