『記』垂仁記に、曙立王・菟上王がホムチワケを連れて出雲に行く話がみえます。
曙立王・菟上王は、『記』開化系譜に、日子坐王と山代之荏名津比売(亦の名刈幡戸弁)の子、大俣王の子としてみえ、曙立王は、伊勢品遅部君・伊勢佐那造の祖、菟上王は、比売陀君の祖とあります。
曙立王は、ウケヒで、鷺巣池の樹に住む鷺を一度死なせて生き返らせ、甜白檮之前の樫の木を一旦枯れさせて復活させて「倭者師木登美豊朝倉曙立王」の称号を贈られ、出雲へ出発しました。
「鷺巣池」は、『延喜式』神名帳の大和国高市郡の鷺栖神社(奈良県橿原市四分町)のあたりとされ、口碑に、橿原市上飛騨町日高山の八幡神社が旧社地であると伝わります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:橿原市>畝傍地区>四分村>鷺栖神社)
「甜白檮(あまかし)之前」は、奈良県明日香村豊浦の甘樫丘であり、北西麓に、式内社の甘樫坐神社が鎮座し、日高山の八幡神社の南南東1.3kmという至近関係にあります。
甘樫丘のある豊浦は、7世紀の推古天皇の豊浦宮の地です。
いっぽう、菟上王の「菟上(うなかみ)」は、上菟上国造・下菟上国造の「菟上(うなかみ)」に通じます。
下菟上国造は、下海上国造とも記され、律令期以前、下総国東部の海上郡・香取郡・匝瑳郡を支配下に治めた勢力であり、令制下には、海上国造他田日奉部直を称しました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):千葉県:海上郡)
他田日奉部の「他田(おさだ)」は、敏達天皇の訳語田(おさだ)幸玉宮を示し、「日奉部」は、豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が敏達の后となった時に定められた日祀部(『紀』敏達紀6年2月条)です。
曙立王・菟上王はともに、豊御食炊屋姫(額田部皇女)と関わりをもつことがわかります。
豊御食炊屋姫の幼名の額田部皇女の「額田部」は、養育に関与した額田部連を示します。
『記』ウケヒ神話の系譜において、上菟上国造・下菟上国造は、出雲国造の祖、建比良鳥の後裔氏族とされ、建比良鳥の弟の天津日子根の後裔氏族に、額田部湯坐連がみえます。
曙立王・菟上王は、出雲国造と近しい、後に額田部連・海上国造他田日奉部直となる勢力と推測されます。
曙立王・菟上王がホムチワケを連れて出雲に行く話の背景に、出雲国造を核として纏まる勢力の存在が窺われます。