ホムツワケ伝承と出雲

『記』『紀』垂仁段に、言葉を失ったホムツワケの再生の話がみえます。

『記』『紀』で話の構成に違いがありますが、出雲の力によって解決に至る点は共通します。

『記』は、言葉を失ったのは出雲大神の祟りのためと占いの結果が出て、曙立王・菟上王と一緒に出雲を訪れて大神を拝むことで、『紀』は、天湯河板挙が出雲で捕らえた鵠と遊ぶことで、ホムツワケは言葉を取り戻します。(→ ホムツワケ伝承と鳥取連

ホムツワケと出雲にどのような関係があったのか。

『記』でホムツワケが訪れた土地と『紀』で天湯河板挙が鵠を捕まえた土地が一致することに注目します。

『記』で、ホムツワケは、出雲大神を拝した後、肥河(斐伊川)に黒い樔橋を作り仮宮を構え、出雲国造祖岐比佐都美が献上した大御食を見て、次のように言葉を発します。

是の、河下にして、青葉の山の如きは、山と見えて、山に非ず。

若し出雲の石クマの曾宮に坐す葦原色許男大神を以ちいつく祝が大庭か。

ホムツワケは、「出雲石クマ曾宮に坐す葦原色許男大神」を祭祀する「出雲国造祖、岐比佐都美」と出会って、言葉を取り戻したことがわかります。

「岐比佐都美(きひさつみ)」は、『出雲国風土記』にみえる「枳(伎)比佐可美(きひさかみ)高日子命」と同神もしくは関係神かと考えられています。(新編日本古典文学全集『風土記』1997年、209頁注10)

神魂の命の御子、天津枳比佐可美高日子の命の御名を、又、薦枕志都治値と云す。

この神郷の中に坐す。故れ、志丑治と云ふ。〈神亀三年、字を漆治と改む。〉

『出雲国風土記』出雲郡漆治郷条

曽支能夜の社に坐す、伎比佐可美高日子の命の社、すなはちこの山の厳に在り。

故れ、神名火山を云ふ。

『出雲国風土記』出雲郡神名火山条

「曽支能夜(そきのや)の社」は、『延喜式』神名帳の出雲国出雲郡に「曾枳能夜神社」とみえ、仏経山の北麓、島根県出雲市斐川町神氷に鎮座し、御神体は、神名火山である仏経山とされます。

天津枳比佐可美高日子の亦の名、「薦枕志都治値(こもまくらしつち)」の名に因む出雲郡漆治郷は、島根県出雲市斐川町直江を含む一帯に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):島根県:出雲国>出雲郡・出東郡・出雲郡>漆治郷)

いっぽう、天湯河板挙が出雲のどこで鵠を捕らえたのかは、『紀』に記されていませんが、『姓氏録』右京神別上の鳥取連の項に「出雲国の宇夜江」と明記されています。

「宇夜」について、『出雲国風土記』出雲郡健部郷条に次のようにみえます。

先に宇夜の里と号けし所以は、宇夜都弁の命、その山に天降り坐しき。

すなはち彼の神の社、今に至りても猶ほ此処に坐す。

故れ、宇夜の里と云ひき。

その後、改めて健部と号くる所以は、

纏向の檜代の宮に御宇しし天皇、勅りたまひしく、

「朕が御子、倭健の命の御名を忘れじ」とのりたまひて健部を定め給ひき。

その時、神門の臣古祢を、健部と定め給ふ。

すなはち健部の臣等、古より今に至るまで、猶ほ此処に居まひす。

故れ、健部と云ふ。

出雲郡健部郷は、宇夜都弁命が山に天降りしたことから「宇夜の里」とよばれていたが、ヤマトタケルの名を残すため健部を定めたことから、健部郷となったと記されます。

健部郷は、遺称地とされる島根県出雲市斐川町三絡(みつがね)の武部を含む、仏経山北麓に比定され、郷域に荒神谷遺跡があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):島根県:出雲国>出雲郡・出東郡・出雲郡>健部郷)

『記』『紀』のホムツワケ伝承の示す出雲の土地は、『記』は出雲郡漆治郷、『紀』は出雲郡健部郷であり、2郷は仏経山北麓に位置し隣接します。

ホムツワケ伝承とは、何を意味するのか。

『出雲国風土記』健部郷条に、「神門の臣古祢」を健部としたことがみえます。

「神門の臣古祢」は、『紀』崇神紀60年7月条にみえる出雲振根を示します。

出雲振根は、出雲大神の宮で「武日照命の神宝」を管理する役にありましたが、王権中枢の人たちに神宝を奪われた上に殺され、その後、出雲臣等が長期間にわたり出雲大神の祭祀を中止したことが記されます。(→ 出雲振根の討伐

出雲振根は、イヅモタケルともよばれ、彼を殺したのは吉備津彦と武渟河別ですが、『記』は、ヤマトタケルがイヅモタケルを殺したと記します。

『出雲国風土記』に、ヤマトタケルの名を残すために「神門の臣古祢」を健部としたとあるのは、出雲振根の殺害後、配下の勢力を王権の支配下に置いたことを示すものと思われます。

『記』によると、ホムツワケが言葉を失ったのは出雲大神の祟りとあります。

出雲振根の事件とホムツワケの話は連続するものではないかと考えます。

王権は、「武日照命の神宝」の祭祀を求心力に組織化された広域の鋳造技術集団を直接の支配下に置こうとして、神宝を簒奪し管理者を殺害しましたが、祭祀の中止により集団が大きく反発し混乱が生じたものと思われます。

いっぽう、ホムツワケの養育に尽力した鳥取連の本拠地である河内国大県郡に、王権直属とみられる大規模な鍛冶遺構をもつ大県遺跡が展開することが注目されます。

双方とも「山部」の技術に属します。

ホムツワケ伝承とは、朝鮮半島伝来の韓鍛冶を王権直属で施行するにあたり、金属鋳造も同様に直轄化しようとして失敗した際に、混乱した「山部」のなかで起きた出雲の遺恨解消の動きを寓話的に描いたものではないかと思います。

曾枳能夜神社の鎮座地の小字「神氷」は、神守村と氷室村の合併を示します。神社の北方約1kmに、式内社の加毛利神社が鎮座し、ウガヤフキアヘズの海辺宮の伝承を伝え、蟹守の子孫の氏神とされ、掃守(神守)の拠点とみられます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):島根県:簸川郡>斐川町>氷室村、斐川町>神守村、神守村>加毛利神社)(→ 掃守と倭文・大国魂・ホムツワケ

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