『記』『紀』垂仁段にみえるホムツワケ伝承について次のような点に注目します。
① 『紀』崇神紀60年7月条の出雲振根討伐との連続性
ホムツワケ伝承は『記』と『紀』で構成が異なりますが、出雲の仏経山北麓がホムツワケの言葉を取り戻す契機となる点は共通します。
『紀』『姓氏録』は、宇夜江で捕らえた鵠と遊んだ時に、『記』は、出雲国造祖岐比佐都美(曾枳能夜神社祭神の伎比佐可美高日子)に出会った時に、ホムツワケは言葉を取り戻しています。
宇夜江と曾枳能夜神社は、仏経山北麓の隣接する、それぞれ健部郷・漆治郷に属します。
『出雲国風土記』に、「宇夜の里」が健部郷となったのは、当地に住む「神門の臣古祢」をヤマトタケルの名を残すために健部としたことによると記されますが、「神門の臣古祢」とは、『紀』崇神紀60年7月条にみえる出雲振根を示します。
出雲振根は、倭王の配下に神宝を奪われたうえ、殺されました。
『記』は、イヅモタケルがヤマトタケルに殺されたと記しますが、『紀』に、イヅモタケルとは出雲振根の別名とされます。
「宇夜の里」は、出雲振根事件と関わる、因縁の地であったことを窺わせます。
ホムツワケの言葉を奪ったとされる「出雲大神の祟り」は、出雲振根事件と繋がっていると考えます。(→ ホムツワケ伝承と出雲)
② 鉄の鍛造
ホムツワケの養育集団として鳥取部・鳥養部が設定されましたが、統括者である鳥取連の本拠地、河内国大県郡に、王権直属とみられる大規模な鍛冶工房をもつ大県遺跡があります。(→ ホムツワケ伝承と鳥取連)(→ 河内国大県郡鳥取郷)
また、『記』『紀』に、ホムツワケの母の狭穂媛に代わり垂仁の后となった日葉酢媛の子、五十瓊敷入彦が和泉国日根郡鳥取郷の茅渟菟砥川上宮で剣1000口を作り石上神宮に納めたことがみえます。(→ 五十瓊敷入彦と茅渟菟砥川上宮)
鳥取部と製鉄・鍛造の関係が窺われます。
③ 吉備の山部
『紀』清寧即位前紀に、吉備上道臣出身の雄略妃の子、星川皇子の謀反が失敗して、吉備上道臣の山部(製鉄・鍛造に使われる鉄資源を供給する集団)が王権に没収されたことがみえます。
星川皇子と親しかった河内三野県主小根は、田地を差し出して辛うじて死罪を免れましたが、三野県主は鳥取連と同祖関係にあります。(→ 三野県主)
また、吉備上道臣の本拠地の備前国赤坂郡に鳥取郷が設定され、ホムツワケ伝承と5世紀第4四半期の吉備の鉄資源掌握に接点がみられます。
④ 尾張
『尾張国風土記』逸文に、尾張国丹羽郡阿豆良神社の起源を描くホムツワケ伝承の異伝がみえ、『記』『紀』とは舞台が異なりますが、ホムツワケが言葉を取り戻すため出雲に頼る点は共通します。
また、『記』に、尾張の杉で造った船でホムツワケが遊ぶ記述がみえ、ホムツワケと尾張の密接な関係が窺われます。(→ 『尾張国風土記』逸文のホムツワケ伝承)
①〜④をつなぐ要素として、草薙剣に注目します。
草薙剣は、出雲の簸の川上で現れて尾張の熱田神宮に祭祀され、④の出雲と尾張の関係につながります。
草薙剣祭祀の起源を伝える熱田神宮摂社の氷上姉子神社の「氷上姉子」とは、振根事件の後、出雲臣による大神祭祀が中止された時、とりなしに入ったという「氷上の氷香戸辺」と思われ、①とつながります。(→ 熱田神宮摂社の氷上姉子神社)
八岐大蛇神話に、草薙剣とペアで描かれる石上坐布都御魂は、吉備上道臣の本拠地の備前国赤坂郡の石上布都之魂神社を起源とし、①と③の同時性を窺わせます。(→ 石上神宮の起源伝承)
出雲振根討伐時に王権が簒奪した「武日照命の神宝」は、『紀』垂仁紀26年8月条から出雲に返還されたとみられていますが、簒奪者が尾張の勢力に授与しそのまま熱田で祭祀された、つまり「武日照命の神宝」は草薙剣であった可能性があります。
②の大県遺跡に代表される韓鍛冶に供給するため、王権は、③の吉備の鉄を掌握しました。
いっぽう、「武日照命の神宝」簒奪の目的が、③と同様、すなわち出雲の鉄資源(砂鉄)であったかというと、古代の剣は鉄鉱石を素材としており、可能性は低いと思われます。
仏経山北麓の特性として、荒神谷遺跡から卓越した金属鋳造技術集団の存在が窺われ、王権は、韓鍛冶による鉄の精錬・鍛造の開始にあたり、出雲を中心とする鋳造技術の直轄化も目論んだのではないかと考えます。
「山部」は、鍛造も鋳造も含む組織で、鍛造系の円滑な施行のため鋳造系の安定は不可欠で、尾張に対し、草薙剣の祭祀を出雲に十分に配慮するかたちで行うよう要請したのではないかと思います。
ホムツワケを出雲に連れて行った曙立王・菟上王の属性は、ウケヒ神話の系譜で出雲国造と同祖関係にある額田部連と一致します。(→ 曙立王・菟上王と出雲)
「言葉を失ったホムツワケ」とは、出雲の地から切り離されて霊力を失った草薙剣を意味し、「山部」による神威の再生の過程が描かれているのではないかと思います。
ホムツワケ伝承に関わり、もう1つ着眼点があります。
⑤ 生駒と茅渟の抗争
『紀』において、ホムツワケの再生に尽力した天湯河板挙の後裔氏族、鳥取連と美努連(三野県主)について、前者は河内国大県郡、後者は河内国若江郡と、いずれも生駒山地西麓に属します。
ホムツワケは、狭穂彦・狭穂媛の討伐で支持母体と言葉を失いました。
『記』開化系譜に、狭穂彦の筆頭後裔氏族は日下部連とされ、「日下」はやはり生駒山地西麓を示します。(→ 狭穂彦後裔氏族)
また、同系譜に、狭穂彦・狭穂媛の母は、春日建国勝戸売女沙本之大闇見戸売とありますが、生駒山地西麓の河内国高安郡の天照大神高座神社について「元名春日戸神」と『延喜式』にみえ、春日戸社坐御子神社も記され、「春日」という地名がみられます。(→ 天照大神高座神社と恩智神社)
いっぽう、狭穂彦・狭穂媛を討伐した、活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)と倭日向武日向八綱田は、前者は生駒、後者は茅渟の勢力を示し、ホムツワケ伝承は、茅渟の介入で生駒が分裂し一方が滅亡する構図をもつことがわかります。(→ 倭日向武日向八綱田)
この構図は、神武東征伝承の「孔舎衛坂の戦」と一致します。(→ 「孔舎衛坂」の戦いと長髄彦)