五十瓊敷入彦と茅渟

『記』『紀』に、五十瓊敷入彦による造池と作刀の記述がみえます。

五十瓊敷命を河内国に遣して、高石池・茅渟池を作らしむ。

『紀』垂仁紀35年9月条

五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る。

因りて其の剣を名けて、川上部と謂ふ。

亦の名は裸伴(あかはだがとも)と曰ふ。

石上神宮に蔵む。

是の後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。

『紀』垂仁紀39年10月条

印色(いにしき)入日子命は、血沼池を作り、

又、狭山池を作り、又、日下の高津池を作りき。

又、鳥取の河上宮に坐して、横刀壱仟口を作らしめき。

是を石上神宮に奉り納れて、即ち其の宮に坐して、河上部を定めき。

『記』垂仁記

「鳥取の河上宮」「茅渟の菟砥川上宮」で、五十瓊敷入彦が剣1,000口を作って、石上神宮に納めたことがみえます。

菟砥川は、大阪府阪南市南東部の和泉山脈を水源とし、鳥取中付近で山中川・金熊寺川と合流し男里川となって大阪湾へ注ぎます。

「鳥取の河上宮」「茅渟の菟砥川上宮」は、菟砥川上流域の和泉国日根郡鳥取郷を示し、阪南市自然田の玉田山に、天保4年(1833)の堺奉行所与力上条柳居の撰文による記念碑が建ち、五十瓊敷の宮跡とされます。

玉田山の北西約1kmに、和泉国日根郡の式内社である波太神社が鎮座します。

寛永21年(1644)の「泉州日根郡鳥取県大宮八幡宮来由記」(社蔵)、元禄年間(1688~1704 )作と推定される「波太宮八幡宮来由記」(社蔵)によると、日根郡鳥取郷に住む、鳥取氏の祖、天湯河板挙が、波太邑(桑畑字奥宮)に祖神の角凝を祀ったのを起源とし、その後、永徳年間(1381~1384)に兵火のため焼失し、南朝方の鳥取氏は滅亡、同氏の耆宿が、波太村より当地に移し、貝掛の指出森より八幡宮を勧請して相殿に合祀したと伝えます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:泉南郡>阪南町>自然田村、泉南郡>阪南町>石田村>波太神社)

『記』『紀』の五十瓊敷入彦による作刀記事は、同じ垂仁段にみえるホムツワケ伝承の続篇となります。

垂仁天皇の后の狭穂媛が謀反を起こした狭穂彦とともに亡くなり、残された狭穂媛の子のホムツワケの養育のために鳥取部・鳥養部が設定され、茅渟の菟砥川上流の集団もその1つとみられます。(→ ホムツワケ伝承と鳥取連

「養育のための集団」というのは寓意で、作刀が示すように、本質は、製鉄・鍛造集団とみられます。

狭穂媛の後に垂仁天皇の后となった日葉酢媛の子である五十瓊敷入彦が、和泉国日根郡の製鉄・鍛造集団を統括する立場にあったことを示します。

また、五十瓊敷入彦の造った池は、「高石」「茅渟(血沼)」「狭山」「日下高津」といずれも茅渟とよばれる地域にあり、その墓は、『延喜式』諸陵寮に、和泉国日根郡の宇度墓(大阪府泉南郡岬町淡輪の宇度墓古墳に治定)と記されます。

五十瓊敷入彦と茅渟の深い関係が窺われます。

◇ 茅渟は、神武段では、神武の兄彦五瀬の終焉の地、崇神段では、大物主神祭祀者の出身地、垂仁段では、狭穂彦・狭穂媛の討伐者の本拠地とされ、さらに統轄者として五十瓊敷入彦がいます。3伝承に、茅渟の攻防をめぐる連続性が認められます。(→ 春日・十市・茅渟の三つ巴)

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