『紀』清寧即位前紀に、河内三野県主小根の話がみえます。
雄略の没後、吉備稚媛の子である星川皇子が王位簒奪の反乱を起こして失敗し燔殺され、星川皇子に仕えていた三野県主小根は、草香部吉士漢彦の足に抱きついて命乞いし、大伴室屋大連に難波来目邑大井戸田10町を奉じて死罪を免れました。
『紀』清寧即位前紀是月条に、星川皇子を救うために船団を派遣した吉備上道臣が罰として「山部」を没収されたことがみえます。
「山部」とは、鉄資源供給集団とされます。
三野県主小根の話は、王権による鉄資源供給集団の掌握と軌を一にします。
三野県主は、『紀』天武紀13年正月庚子条に連姓を賜ったことがみえ、『姓氏録』河内国神別に、「美努連 同じき神(角凝魂命)の四世孫、天湯川田奈命の後なり」と記されます。
天湯川田奈は、『紀』垂仁紀に、鳥取造祖天湯河板挙と記され、ホムツワケの養育に中心となって関与したことがみえ、三野県主は鳥取造(鳥取連)と同祖関係にあることかわかります。
鳥取連の本拠地は、河内国大県郡鳥坂郷・鳥取郷とされ、近くに大規模な鍛冶遺構で著名な大県遺跡が展開し、鳥取連と三野県主は、鉄に関わることで一致します。
三野県主の本拠地は、河内国若江郡の式内社の御野県主神社(大阪府八尾市上之島町南)の周辺とされ、鳥取連と同様、生駒山地西麓に属します。
5世紀後半の『紀』清寧即位前紀の三野県主をめぐる動向とホムツワケ伝承との関係が注目されます。