狭穂彦後裔氏族

『記』『紀』垂仁段に、狭穂彦の謀反と誉津別の再生の話がみえます。

垂仁天皇は、狭穂彦の妹の狭穂媛を后として、誉津別(ホムツワケ)という子をもうけますが、狭穂彦が謀反を起こすと、狭穂媛は兄とともに火を放たれた砦に残り死んでしまいます。

火の中から助け出されたホムツワケは、大きくなっても言葉を発することがなく、群臣から献上された鵠と遊んで言葉を取り戻します。

狭穂彦・狭穂媛の「狭穂」は、奈良市中央部北方の佐保川上流域を示す「佐保」とされ、『記』開化系譜に「沙本」、『紀』継体紀8年10月条に「匝布」とみえます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:奈良市>佐保・佐紀地区>佐保)

『記』開化系譜に、沙本毘古王(狭穂彦)について「日下部連・甲斐国造が祖ぞ 」、『姓氏録』河内国皇別の日下部連について「彦坐命の子、狭穂彦命の後なり」とみえ、狭穂彦後裔の筆頭氏族は日下部連とされます。

また、『姓氏録』河内国皇別の豊階公について、「川俣公同祖 彦坐命の男、澤道(サワヂ)彦命の後なり」と記され、川俣公は日下部連同祖とあり、また『記』に「沙本毘売命、亦の名は、佐波遅比売」とみえることから、狭穂彦はサワヂヒコ、狭穂媛はサワヂヒメともよばれることがわかります。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年、443~444頁)

『姓氏録』に狭穂彦後裔を明記する氏族は日下部連・豊階公の2氏ですが、その他に、日下部を姓とする彦坐後裔5氏族とそれらと同祖関係にある5氏族は狭穂彦の後裔とみられます。

『姓氏録』の狭穂彦の後裔とみられる氏族を表にすると次のとおりです。

山城国皇別日下部宿禰開化天皇の皇子、彦坐命の後なり 日本紀に合へり
大和国皇別川俣公日下部宿禰同祖 彦坐命の後なり
摂津国皇別日下部宿禰開化天皇の皇子、彦坐命より出づ 日本紀に合へり
摂津国皇別依羅宿禰日下部宿禰同祖 彦坐命の後なり 続日本紀に合へり
摂津国皇別鴨公前の氏に同じ
河内国皇別日下部連彦坐命の子、狭穂彦命の後なり
河内国皇別川俣公日下部連同祖 彦坐命の後なり
河内国皇別豊階公川俣公同祖 彦坐命の男、澤道彦命の後なり
河内国皇別酒人造日下部同祖 日本紀に見えず
河内国皇別日下部日下部連同祖
和泉国皇別日下部首日下部宿禰同祖 彦坐命の後なり
和泉国皇別日下部日下部首同祖

いっぽう、『姓氏録』に載る、「日下」を姓とするけれど狭穂彦と関係を持たない氏族は次のとおりです。

河内国皇別日下連阿閇朝臣同祖 大彦命男紐結命の後なり
河内国神別日下部神饒速日命孫比古由支命の後なり
摂津国神別日下部阿多御手犬養同祖 火闌降命の後なり
未定雑姓摂津日下部首天日和伎命の六世孫保都禰命の後なり

「日下」を姓とする氏族の多くが狭穂彦後裔であることがわかります。

「日下」は、河内国の生駒山地西麓の古代の草香潟に臨む地域の名称です。(→ 日下の后妃)(→ 「孔舎衛坂」の戦いと長髄彦

なぜ、佐保川上流域勢力の後裔氏族が「日下」を冠するのか。

狭穂彦・狭穂媛の「狭穂」は「佐保」よりも広い地域を示す可能性があります。

大和国添上郡・添下郡は、古くは、『紀』神武即位前紀に「層富県」、天平2年(730)大倭国正税帳(正倉院文書)に「添御県」、『延喜式』祈年祭祝詞に「曾布御県」とみえるソフ県とよばれる地域でした。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:大和国>添上郡、添下郡)

「狭穂」「沙本」「匝布」は、「添」「層富」「曾布」と同義ではないか。

ソフ県の中心勢力は添県主とみられ、『姓氏録』に「津速魂命の男、武乳遺命自り出づ」と記されます。

本拠地は、添御県坐神社が鎮座する、生駒山地東麓の奈良市三碓とみられますが、河内国河内郡の枚岡神社神官家の平岡連も津速魂14世孫の鯛耳臣を祖とし、勢力圏は生駒山地西麓に及んでいます。(津速魂は中臣氏の遠祖であり、中臣氏は旧ソフ県の勢力を再掌握して成立したものと思われます)

狭穂媛の遺児のホムツワケは、鳥取連の尽力により養育されますが、鳥取連の本拠地も生駒山地西麓の河内国大県郡にあります。(→ 鳥取連と河内国大県郡

さらに、ホムツワケの父の垂仁天皇は「活目入彦五十狭茅」と表記されますが、「活目」は生駒を意味します。

ホムツワケ伝承に関わる、狭穂彦・狭穂媛、活目入彦五十狭茅(垂仁)、鳥取連はすべて生駒山地東麓・西麓を拠点とする勢力を示すことがわかります。

『記』開化系譜に、狭穂彦の後裔とされる甲斐国造は、「国造本紀」に「纏向日代朝世 狭穂彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海足尼定賜国造」とみえますが、「臣知津彦」は、近江国伊香郡の勢力系譜にみえる「臣知人」と同一人物と思われます。(→ 近江国伊香郡と中臣・物部)

目次