日向諸県君は、日向国諸県郡の勢力ですが、その郡域は、大淀川中流・上流域と支流域の大部分と川内川上流の加久藤盆地を含むことから、勢力圏は大淀川水系域と考えられています。
本拠地は、大淀川支流本庄川と深年川にはさまれた台地上に造営された本庄古墳群の所在する、宮崎県国富町本庄とされます。
また、大淀川下流域は、宮崎郡に属しますが、宮崎郡と諸県郡の郡境に位置する、生目古墳群は、諸県君による造営の可能性があります。(所在地の宮崎市跡江は宮崎郡ですが、西に接する宮崎市有田は諸県郡に属し、2郡の境界にあたります)
また、諸県郡の南の志布志湾沿岸地域は、神武東征伝承の「姶羅」にあたります。
「姶羅」は、律令制下では大隅国に属しますが、古来、諸県郡域に属していたとみる見解があり、郡域に含まれなかったとしても、諸県君との交流は十分に推測できる位置関係にあります。
5世紀初めの仁徳と日向諸県君髪長媛の結婚は、南九州の地域勢力と王権の接点といえます。
また、『紀』応神紀13年9月条一云に、角の付いた鹿の皮を被った水夫を乗せた、諸県君牛の船団が、鹿子水門(加古川河口)に入る話がみえます。
類似の話は、『詞林采葉抄』所引『淡路国風土記』逸文と『住吉大社神代記』賀胡郡阿閉津浜一処条にもみえ、鹿子(かこ)水門の地名起源伝承となっており、諸県君と加古川河口域の港津との関係が推測されます。
◇ 仁徳と日向諸県君髪長媛が結婚し、その子どもの一族が5世紀代に複数の后妃を輩出している。(→ 日下の后妃)
西都原古墳群は、日向国児湯郡に所在し、造営勢力は、『紀』景行紀13年5月条にみえる日向国造と推測され、本庄古墳群を造営した日向諸県君とは別勢力であると思われます。しかし、川の水系でみると、本庄古墳群は、大淀川支流本庄川と深年川のあいだの台地上にあり、西都原古墳群は、一ツ瀬川と支流三財川・三納川のあいだの台地上にあって、深年川支流三名川と三財川支流田野川が籾木池付近で接しており、両勢力の関係性が推測されます。