仁徳は、応神から譲られた日向諸県君髪長媛と結婚し、2人のあいだに、大草香皇子、草香幡梭姫皇女をもうけました。(→ 日向諸県君髪長媛と仁徳の結婚)
「大草香皇子」「草香幡梭姫皇女」の「草香」は、2人の居住地とみられます。
「草香」は「日下」とも記され、生駒山地西麓、東大阪市の善根寺・日下・布市の地域に比定されます。
『記』雄略記に「日下の直越道」、『紀』神武即位前紀に「孔舎衛(くさえ)坂」、『万葉集』巻6-977に神社忌寸老麻呂による「直越えのこの道にてしおしてるや難波の海と名付けけらしも」という歌がみえ、生駒山地を越えて、河内国と大和国を結ぶ道があったことがわかります。
『行基年譜』に、行基が養老4年(720)9月15日、河内国河内郡「早村」に石凝院を建立したことがみえ、「早村」は日下村と考えられています。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:河内国>河内郡>日下郷、東大阪市>旧枚岡市地区>善根寺村>草香江・孔舎衛坂)
「日下」の比定地について異説もあります。
『多神宮注進状裏書』に、「昔凡河内国日下県可為 今大県、高安、河内、讃良四郡也乎哉」とみえ、「日下県」は、大県・高安・河内・讃良の4郡、生駒山西麓の広域を示す地名とされます。
佐伯有清氏は、『姓氏録』河内国神別にみえる大県主について、『多神宮注進状裏書』の記述にもとづき、日下県の県主であるという見解を示されています。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第4』)
大草香皇子・草香幡梭姫皇女と大王に関わる系図を示すと次のとおりです。
安康 履中 │ ├──────────中蒂姫 草香幡梭皇女 │ ├眉輪王 仁徳 │ ├────────┬─大草香皇子 日向諸県君髪長媛 └─草香幡梭姫皇女 │ 雄略
履中妃「草香幡梭皇女」と雄略后「草香幡梭姫皇女」は、同名であり、同一人物ならば、系図はつぎのようになります。(世代や婚姻関係を考えると無理があることから異論もあります)
仁徳 ├────────┬─ 大草香皇子 日向諸県君髪長媛 │ ├── 眉輪王 │ 履中 │ │ ├─ 中蒂姫 │ │ │ │ │ 安康 │ │ └─ 草香幡梭皇女 │ 雄略
また、履中妃「草香幡梭皇女」を、応神と日向泉長媛の子「幡日之若郎女」(『記』)とする見解に従えば、系図は次のようになります。
安康 履中 │ 応神 ├─────────中蒂姫 ├────草香幡梭皇女 │ 日向泉長媛 ├── 眉輪王 仁徳 │ ├───────┬─大草香皇子 日向諸県君髪長媛 └─草香幡梭姫皇女 │ 雄略
何れにしても、履中妃「草香幡梭皇女」と雄略后「草香幡梭姫皇女」は、近い関係にある「日下」の女性と推測されます。
5世紀初めから5世紀後半まで、仁徳から雄略までの6人中4人の大王が、日向諸県君の血統を継ぐ女性を后妃としており(例外は、反正・允恭)、当該期の王権と日向の関係の深さを示しています。(平林章仁「日下攷」(『「日の御子」の古代史』、2015年))
◇ 雄略朝に日下の后妃が途絶えると、それにかわって、和珥春日の后妃が欽明朝まで継続する。(→ 和珥春日の后妃)
◇ 日下県広域説にもとづくと、草香幡梭皇女の拠点は、河内国河内郡日下郷に限定されず、大県・高安・讃良郡内にあった可能性がある。(→ 『多神宮注進状裏書』にみえる河内国の神社)