『延喜式』神名帳に、伊勢国壱志郡の名神大社としてみえる阿射加神社は、雲出川支流中村川右岸、堀坂山に連なる枡形山(312.3m)の西麓、三重県松阪市大阿坂町と小阿坂町の2カ所に鎮座します。
南北朝期、枡形山山頂部に、北畠氏の「阿坂城」が築かれるなど、要害の地として知られます。
『記』に、次のようなサルタヒコをめぐる伝承がみえます。
故、其の猿田毘古神、阿耶訶に坐しし時に、漁為て、
ひらぶ貝に其の手を咋ひ合さえて、海塩に沈み溺れき。
故、其の、底に沈み居る時の名は、底度久御魂と謂ひ、
其の、海水のつぶたつ時の名は、都夫多都御魂と謂ひ、
其の、あわさく時の名は、阿和佐久御魂と謂ふ。
サルタヒコが「阿耶訶(あざか)」で漁をして溺れたことが記されます。
阿坂は、サルタヒコゆかりの地であることがわかります。
サルタヒコの対偶神であるアメノウズメは、天石屋神話で活躍した神として知られますが、天石屋神話は、伊勢神宮内宮起源伝承の「前章」の意味をもち、『記』と『紀』神代紀第9段一書第1にみえるサルタヒコとアメノウズメの話は、2神が、伊勢神宮内宮の草創に一義的に関与したことを描いたものと解されます。(→ 『記』の伊勢神宮内宮起源伝承)
サルタヒコと伊勢神宮の関係は、阿坂に、中世、伊勢神宮外宮領、阿射賀御厨が展開したことに符合します。
また、『倭姫命世記』に一書として次のような記事がみえます。
天照大神、美濃国より廻りて、安濃の藤方の片樋宮に到りましき。
時に安佐賀山に荒ぶる神あり。
百往人は五十人亡(ころ)し、四十往人は廿人亡しき。
茲に因りて倭姫命、度会郡の宇遅村の五十鈴の河上宮に入りまさず、
藤方の片樋宮に斎き奉りき。
時に安佐賀山の荒悪ぶる神の為行を、倭姫命、
中臣大鹿嶋命・伊勢大若子命・忌部玉櫛命を遣りて、天皇に奏聞さしめき。
天皇、詔りたまひしく、
「其の国は、大若子命の先祖天日別命の平けし山なり。
大若子命、其の神を祭り平して、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉れ」とのりたまひて、
即ち種々の幣を賜ひて遣りたまひき。
大若子命、其の神を祭りて、已に保けく平定めて、
即ち社を安佐賀に立てて祭りき。
倭姫が天照大神を奉じて度会郡の五十鈴宮に行く途中、「安佐賀山」の神が悪行を為したので、垂仁天皇のもとに「中臣大鹿嶋命」「伊勢大若子命」「忌部玉櫛命」を遣り、詔に従って「安佐賀の社」が祭られたことが記されます。
「安佐賀の社」は、「中臣大鹿嶋命」「伊勢大若子命」「忌部玉櫛命」が関与して創始されたとありますが、「中臣大鹿嶋命」は内宮禰宜家の荒木田氏の祖、「伊勢大若子命」は外宮禰宜家の度会氏の祖です。
また、「中臣大鹿嶋命」「忌部玉櫛命」にかんして、「忌部」「中臣」の祖はともに、天石屋神話において天照大神を天石屋から出す役割を担っており、アメノウズメと同じ性格をもつことに注目します。
共通する属性は「磯部」と推測されます。
『記』のサルタヒコ伝承と『倭姫命世記』の一書の記述は矛盾するものではなく、阿坂と「磯部」の関係性を示すもので、阿射加神社は「磯部」の奉祭神と推測されます。