伊勢国多気郡相可郷

『和名抄』伊勢国多気郡相可郷は、三重県多気町の相可を遺称地として、三疋田から津留までの櫛田川右岸、五佐奈・仁田などの佐奈川上流域、及び相鹿瀬の地域に比定されます。

注目点が5つあります。

① 「相可」は「相鹿」「逢鹿」とも書かれ、『延喜式』神名帳に「相鹿牟山神社」「相鹿上神社」「相鹿木大御神社」がみえます。

相鹿上神社は、現在、櫛田川中流域の右岸、相可の町の中心部に鎮座しますが、当地には元々、式内社の「伊蘇上神社」があり、明治41年(1908)に合祀されたもので、西方310mに「相鹿上神社」の旧社地を示す石標が建てられています。(三重県埋蔵文化財センター『相可出張遺跡(第2次)発掘調査報告』2012年)

「伊蘇上神社」は、磯部氏に関わる神社とみられ、別当寺である磯部寺の治田が、天暦7年(953)2月11日付の近長谷寺資財帳(近長谷寺蔵)に記され、当地が「磯部」の拠点であったことがわかります。

② 先述の近長谷寺資財帳に、「相可故大司大中臣良扶家二月悔過三箇日夜仏供并御明料」「故相可大司大中臣垣内」とあり、相可と伊勢神宮内宮の斎主・宮司の一族大中臣氏とのつながりが窺われます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)三重県:多気郡>多気町>相可村、相可村>磯部寺跡)

③ 郷域に含まれる多気町仁田に、式内社の佐那神社が鎮座します。

『記』神代記に「手力男神は佐那々県に坐せり」とみえ、『記』の伊勢神宮内宮起源伝承の関係神ゆかりの地とされます。(→ 『記』の伊勢神宮内宮起源伝承

また、『記』開化系譜に、曙立王について「伊勢品遅部君・佐那造祖」と記されます。

曙立王は、『記』ホムツワケ伝承に、ホムツワケを出雲に連れて行った人物としてみえます。(→ 曙立王・菟上王と出雲

④ 相可の櫛田川対岸は、伊勢白粉で知られる松阪市射和(いざわ)町です。

射和に曾て存在した、瑞亀山福眼寺あるいは福龍寺ともよばれた射和寺について、天文23年(1554)9月8日の福眼寺本堂勧進状(射和寺文書)に「飯野郡中万郷射和村瑞亀山福眼寺本堂」と記され、当地が「中万郷」すなわち『和名抄』の伊勢国飯野郡乳熊郷であったことがわかります。

先述の近長谷寺資財帳に、「上津中万 字宮守」に敢礒部望丸が施入した垣内があったことが記され、「磯部」の居住が認められます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)三重県:松阪市>射和村>射和寺跡、伊勢国>飯野郡>乳熊郷)

⑤ 射和に、式内社である伊佐和神社が鎮座します。

江戸時代に山神と俗称された伊佐和神社(上社)がありましたが、中山に鎮座する下社八重垣神社(牛頭天王社)に他の数社とともに合祀され、明治40年(1907)に「伊佐和神社」となりました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)三重県:松阪市>射和村)

鎮座地は、伊勢国飯野郡乳熊郷に属しますが、『延喜式』神名帳では多気郡の神社となっています。

「伊佐和(いざわ)」の名称は、『延喜式』神名帳の志摩国答志郡の「粟嶋坐伊射波神社」の「伊射波(いさわ)(いざわ)」と共通します。

「粟嶋坐伊射波神社」の論社である伊雑宮(三重県志摩市磯部町上之郷)の属性から、「伊射波」は「磯部」を示すとみられ、「伊佐和神社」の「伊佐和」も同様と推測されます。(→ 伊雑宮と佐美長神社

多気郡相可郷と飯野郡乳熊郷は、ともに「磯部」の拠点で一体性を持っていたため、『延喜式』の認識が生じたのかもしれません。

①〜⑤をみてくると、伊勢国多気郡相可郷・飯野郡乳熊郷は、「磯部」の拠点であり、伊勢神宮内宮との密接な関係が窺われます。

◇ 櫛田川下流の伊勢国多気郡麻続郷は、倭大国魂神の奉祭勢力の拠点である。櫛田川中流域・下流域に、『紀』垂仁紀の主要な3伝承(倭大国魂神・伊勢神宮内宮・ホムツワケ)の関係勢力が密集している。(→ 伊勢国多気郡麻続郷

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