伊雑宮は、的矢湾の奥、伊雑ノ浦に流入する神路川と野川の合流点付近(三重県志摩市磯部町上之郷)に鎮座し、「伊射波宮」「伊佐波宮」「伊佐布宮」とも記され、俗に「磯部宮」ともよばれます。
伊勢神宮内宮の別宮の1つで、『皇太神宮儀式帳』及び『延喜式』に次のように記されます。
伊雑宮一院〈在志摩国答志郡伊雑村、太神宮相去八十三里〉、称太神遙宮御形鏡坐
『皇太神宮儀式帳』
伊雑宮一座〈太神遙宮、在志摩国答志郡、去太神宮南八十三里〉
『延喜式』伊勢太神宮
伊雑宮の起源譚として、『倭姫命世記』に、「倭姫が、皇太神に献上するため稲を咥えて現れた白鶴に感じ入り、伊佐波登美神にその稲を抜かせて皇太神に供え、稲のあった田を千田と名付けて、伊佐波登美の神宮を造り、皇太神の摂宮とし、白鶴は、大歳神と称して同処で稲を奉ることになった」という話がみえます。
「伊佐波登美神宮(伊雑宮)」と「大歳神」がペアで祭祀されたことに注目します。
「大歳神」は、出雲系の神です。
伊雑宮の南西750mに鎮座する佐美長神社(三重県志摩市磯部町恵利原)は、明治以前に「大歳神社」とよばれていたことから、「大歳神」は、佐美長神社と考えられています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)三重県:志摩郡>磯部町>恵利原村)
『延喜式』神名帳の志摩国答志郡に、「粟嶋坐伊射波神社二座」と「同嶋坐神乎多乃御子神社」が記されます。
前者は伊雑宮に、後者は佐美長神社に比定されます。(前者について、伊射波神社(三重県鳥羽市安楽島町)とする説もあります。)
また、『新抄格勅符抄』の大同元年(806)の牒に「粟嶋神二戸、伊雑神二戸」とみえ、「粟嶋神」は「粟嶋坐神乎多乃御子神」すなわち佐美長神社と推測されますが、土地の名である「粟嶋」を冠し、「伊雑神」と同数の神戸を有するなど重要視されていることがわかります。
また、『紀』神功即位前紀にみえる「尾田の吾田節の淡郡に所居る神」について、「淡郡」の「淡」は「粟嶋」、「尾田」は「粟嶋坐神乎多乃御子神社」の「乎多」、「吾田節」の「田節」は「答志」であり、「粟嶋坐伊射波神社二座」あるいは「粟嶋坐神乎多乃御子神社」とされます。
『紀』神功即位前紀と神功紀元年2月条の4神に対応関係がみられ、当該神は、摂津国八部郡の生田神社(祭神は稚日女)に対応し、伊雑宮もしくは佐美長神社と生田神社の密接な関係が窺われます。(→ 広田神社・生田神社・長田神社の起源)
着眼点を2点示します。
① 『紀』神功紀元年2月条に、生田神の祭祀者について「海上五十狭茅」と記されます。
「五十狭茅(いさち)」の「五十狭」、「伊射波神社」の「伊射」、「伊佐波登美神宮」の「伊佐」はいずれも「磯」を意味し、伊雑宮鎮座地の地名の「磯部」、「磯部宮」の「磯部」、伊勢神宮の職掌人の「磯部」も同様の起源をもつと思われます。
② 伊雑宮は、伊勢神宮内宮の遙宮であることから、ペアで祭祀される「御子神」は、天照大神の御子神であるオシホミミと推測されます。
「御子神」が出雲系の「大歳神」である点については、ウケヒ神話において、オシホミミがスサノヲの子神であったことに関わると思われます。