『延喜式』神名帳にみえる近江国野洲郡の馬路石辺神社(滋賀県守山市吉身)は、『姓氏録』に久斯比賀多(クシヒガタ)の後裔氏族と記される石辺公の奉祭神とみられます。
クシヒガタは、『記』『紀』崇神段の大物主神祭祀者の大田田根子の系譜にその名がみえ、和泉国の「茅渟」「陶」と一義的に関係します。(→ 大物主神と大田田根子)
馬路石辺神社の鎮座地は、古代の幹線道である東山道が通るとともに、古代の野洲川が南北2流に分岐する交通上の要衝でした。
野洲川北流は、守山市・野洲市の境を流れ、野洲市吉川で琵琶湖へ流入していましたが(『野洲町史』1、1978年、407頁)、分岐点と河口の中間地点にあたる、野洲市の西河原森ノ内遺跡・光相寺遺跡から「石辺君」「馬道首」と記された木簡や「石辺君」「石辺」「馬」の墨書土器が出土し、石辺君の拠点と推測されます。
西河原森ノ内遺跡からは、「平留(彦根市稲里町・上岡部町)から舟で稲を運べ」と指示した木簡が出土し、河口の吉川湊から彦根市の荒神山山麓の津とのあいだの琵琶湖の水運がわかっています。
西河原森ノ内遺跡は、先述の木簡にみえる「卜部」から兵主神社との関係が推測され、さらに、吉川湊が兵主神社の神供調達の漁場であり神社と特定の簗衆とのあいだに密接な関係が認められます。
石辺公の交通体系と兵主神の交通体系が重複することに注目します。
◇ 中世平流荘の産土神であった稲村神社(滋賀県彦根市稲里町)は、社伝によると、常陸国久慈郡の稲村神社(茨城県常陸太田市天神林町)の分霊とされる。(→ 常陸国久慈郡の稲村神社)