愛知県名古屋市緑区大高町に鎮座する氷上姉子神社は、熱田神宮の摂社で、『延喜式』神名帳の尾張国愛智郡に「火上姉子神社」とみえ、宮簀媛を祭神とします。
寛平2年(890)の「尾張国熱田太神宮縁起」に、次のような話がみえます。
ヤマトタケルは、東征の途上、尾張国愛智郡氷上邑の建稲種公の館で妹の宮簀媛に出会い、帰路、建稲種公が駿河の海に沈んでしまったため、尾張篠城邑から宮簀媛の家へ駆けつけ何日も滞在しました。その後、神剣を置いて出かけ、伊吹山で病に倒れて伊勢国の能褒野で亡くなります。宮簀媛は神剣を守っておりましたが、年老いたので、楓樹一株が自然と燃えて水田が熱くなった土地を社地に定め、熱田の社と名付けました。宮簀媛の没後、仲哀天皇4年に館の跡に設けられたのが当社で、持統天皇4年に東方の現在地へ移りました。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):愛知県:名古屋市>緑区>大高村>氷上姉子神社)
氷上姉子神社は、熱田神宮の創建に関わる重要な神社であることがわかります。
社伝によれば、「氷上姉子」は「氷上邑」に住む「宮簀媛」とみられます。
しかし、「氷上姉子」とは、『紀』崇神紀60年7月条にみえる「丹波氷上の人、名は氷香戸辺」を示し、当社の創建も当該伝承と関わるのではないかと考えます。
出雲臣遠祖出雲振根という者が武日照命の神宝を管理していましたが、その留守に、崇神天皇の遣いが来て神宝を持ち出し、帰ってきた出雲振根は怒って、留守を預かった弟の飯入根を殺してしまいます。
そのことが奏上されると、天皇は吉備津彦と武渟河別を派遣して、出雲振根を殺し、その後の経過が次のように記されます。
故、出雲臣等、是の事に畏りて、大神を祭らずして間有り。
時に、丹波氷上の人、名は氷香戸辺、皇太子活目尊に啓して曰さく、
「己が子、小児有り。而して自然に言さく、
玉も鎮石。
出雲人の祭る、真種の甘美鏡。
押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。
山河の水泳る御魂。
静挂かる甘美御神、底宝御宝主。
是は小児の言に似らず。若しくは託きて言ふもの有らむ」とまうす。
是に、皇太子、天皇に奏したまふ。
則ち勅して祭らしめたまふ。
倭王が出雲の神宝を奪ったうえに神宝の管理者を殺したことで、出雲臣等が長期にわたって大神の祭祀を中止し、丹波氷上の氷香戸辺があいだに入って解決したことが記されます。
不思議な子どもの言葉により祭祀が再開されたとありますが、実際は裏で政治的な交渉が行われたと想像します。
簒奪した神宝について、『紀』は「武日照命の、天より将ち来れる神宝」と記しますが、具体的には天叢雲剣(草薙剣)であったのではないかと考えます。
簒奪者が草薙剣を懇意にする尾張連に与えてしまったので、氷香戸辺は、せめて尾張において「天に返したかたち」で祭祀を行うよう大王に提言し、熱田での祭祀が開始されたと推測します。
『紀』に、草薙剣を「天神に上献ぐ」とみえるのはこのことを指し、熱田神宮に近い尾張国愛智郡の地に、丹波の氷上の氷香戸辺を祀るため氷上姉子神社が創建されたと考えます。
『紀』崇神紀60年7月条の出雲討伐伝承は、王権による出雲の製鉄・鍛造勢力の掌握を示す寓話とみられ、実年代は、5世紀末から6世紀初頭と推測されます。(→ 尾張連による草薙剣祭祀)