石上神宮(奈良県天理市布留町)は、『延喜式』神名帳に「石上坐布都御魂神社」と記され、大和国山辺郡の名神大社とされます。
『姓氏録』大和国皇別の布留宿禰の項に、石上神宮の起源についての記述がみえます。
柿本朝臣同祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。
男、木㕝命の男、市川臣、大鷦鷯天皇の御世、倭に達でまして、
布都努斯神社を、石上の御布瑠村の高庭の地に賀ひまつりて、
市川臣を以て神主と為たまふ。
四世孫、額田臣、武蔵臣なり。
斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣を物部首、幷びに神主首と号づけり。
茲に因りて臣の姓を失ひて、物部首と為れり。
男、正五位上日向、天武天皇の御世、社の地の名に依りて、布瑠宿禰の姓に改む。
日向の三世孫は、邑智等なり。
「市川臣」が、仁徳朝に「布都努斯神社」を創始したと、記されます。
「市川臣」は、『紀』垂仁紀39年10月条「一云」の「春日臣の族、名は市河」と同一人物であり、「市川臣」の父、「木㕝(こごと)」は、『記』反正記に「丸邇之許碁登臣」、『紀』反正紀元年8月条に「大宅臣祖木事」と記される人物で、反正妃の父とされます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年、357頁)
「市川臣」の年代について、『紀』は垂仁朝、『姓氏録』は仁徳朝とし、「市川臣」の父「木事」は、『記』『紀』に反正朝とあり、明らかに錯簡が認められます。
石上神宮の御神体である「布都御魂」は、『紀』神代紀第8段一書第2及び『古語拾遺』の八岐大蛇神話において大蛇を斬った剣であると書かれます。
其の蛇を断りし剣をば、号けて蛇の麁正と曰ふ。
此は今石上に在す。
『紀』神代紀第8段一書第2
天十握剣〈其の名は天羽々斬といふ。今、石上神宮に在り。古語に、大蛇を羽々と謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり。〉を以て、八岐大蛇を斬りたまふ。
『古語拾遺』
また、『紀』神代紀第8段一書第3には、大蛇を斬った剣は、「今吉備の神部の許に在り」と記されます。
其の素戔鳴尊の、蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り。
『紀』神代紀第8段一書第3
「吉備の神部の許に在り」とは、『延喜式』神名帳の備前国赤坂郡にみえる石上布都之魂神社を示し、『石上神宮旧記』に、布都御魂神が吉備から遷座したことがみえ、遷座に関与したのが「市川臣」であると記されます。
素戔烏尊斬蛇之十握剣、名曰天羽々斬。亦曰蛇之麁正。
称其神気曰布都斯魂神。
天羽々斬、自神代之昔至于難波高津宮御宇五十六年在吉備神部許
〈今備前之国石上地是也〉焉。
五十六年孟冬乙巳朔己酉、物部首市川臣〈布留連祖〉
奉勅遷加布都斯魂神神社於石上振神宮高庭之地。
では、吉備の石上布都之魂神社は、どのような勢力に奉祭されていたのか。
石上布都之魂神社(岡山県赤磐市石上)は、新庄川上流域の山中にありますが、その南方、近世の寺部村・平岡西村との関係が認められます。
近世の寺部村の産土神の十二所権現(現熊野神社)の天文21年(1552)の棟札に「奉棟上若王子備前国赤坂郡平岡本荘大宮」とあり、同社の秋の大祭に、石上村の石上布都魂神社と平岡西村の八幡宮が参集し3社祭が行われ、石上村・平岡西村・寺部村は平岡本庄として一体性が認められ、その起源は中世に遡るとみられます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):岡山県:御津郡>御津町>寺部村)
寺部から約2km東へ山越えすると砂川流域の多賀に出ますが、砂川流域は赤坂郡の政治的中心地域で、中流域の赤磐市神田に郡衙が比定され、下流域には備前国分寺、両宮山古墳があり、在地勢力は吉備上道臣とされます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):岡山県:赤磐郡>山陽町>神田村)
石上布都之魂神社の奉祭勢力は吉備上道臣と思われます。
吉備上道臣の祖について、『記』孝霊系譜に「大吉備津日子」とあります。
『紀』崇神紀60年7月条に「吉備津彦」と表記されて、「出雲振根」を討伐した話がみえますが、「出雲振根」は話の内容から斐伊川流域勢力とみられ、八岐大蛇神話との関係が認められます。(→『記』『紀』出雲討伐伝承)
また、『紀』崇神紀60年7月条の歌に、「出雲振根」は「出雲建」と記されます。
『延喜式』神名帳の大和国山辺郡に「出雲建雄神社」がみえ、当該社は、石上神宮の摂社として本社楼門南の台地に鎮座し若宮と称します。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:天理市>丹波市地区>布留村>石上神宮>出雲建雄神社)
石上神宮の御神体である「布都御魂神」は、出雲討伐伝承及び八岐大蛇神話と不可分の関係にあり、一義的に吉備津彦に繋がることが窺われます。
石上神宮を創始した「市川臣」の年代観は、吉備津彦に繫年されると考えます。
『記』『紀』の(神話・伝承ではなく)歴史的事実の部分の記述の研究において、5世紀後半から6世紀前半にかけて王権による鉄資源供給集団の掌握が行われたことが吉備・播磨・近江の事例からわかっています。(山尾幸久『日本古代王権形成史論』1983年)