『延喜式』神名帳の大和国高市郡に、加夜奈留美命神社がみえます。
加夜奈留美命神社は現在、奈良県高市郡明日香村栢森に鎮座しますが、江戸時代は葛神を称し、『大和志』がカヤノモリとカヤナルミの類似から式内加夜奈留美命神社に比定したものであり、異説もあります。
『延喜式』出雲国造神賀詞に「賀夜奈留美命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、皇孫の命の近き守神と貢り置き」とあり、飛鳥神奈備の主祭神は、本来、賀夜奈留美(加夜奈留美)とみられます。
飛鳥神奈備は、現在、飛鳥寺北東方に鎮座する飛鳥坐神社ですが、『日本紀略』天長6年(829)3月10日条に「大和国高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷同郡同郷鳥形山、依神託宣也」とみえ、829年に別の場所から現在地の鳥形山に遷座したものです。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:高市郡>明日香村>飛鳥村>飛鳥坐神社、明日香村>栢ノ森村>加夜奈留美命神社)
遷座の理由は詳らかではありませんが、『類聚三代格』貞観10年(868)6月28日「太政官符」に、天太玉・天櫛玉・臼滝・賀屋鳴比女の4神を飛鳥神の裔神とする記述がみえ、賀屋鳴比女は加夜奈留美なので、遷座に際し、加夜奈留美は、飛鳥神奈備の主神とはならず、裔神に位置付けられて、おそらく旧地に留まったのではないかと思われます。
飛鳥神奈備の旧地については諸説ありますが、岸俊男氏によるミハ山説において、橘寺南方のミハ山が嶋宮の至近にあり、飛鳥神奈備と嶋宮の関係が推定されることに注目します。(岸俊男「万葉歌の歴史的背景」(『文学』39-9、1971年))
嶋宮は、石舞台古墳の下手(西方)に推定され、『紀』推古紀34年5月条にみえる蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」の跡に造られ、その後天武天皇の離宮となり、さらに草壁皇子の嶋宮となったと考えられています。
また、皇極天皇の母吉備姫王は、『紀』皇極紀2年9月条、孝徳紀大化2年3月19日条に「吉備嶋皇祖母命」とみえることから嶋宮に居住したと推測され、墓は、『延喜式』諸陵寮に「檜隈墓」「高市郡檜隈陵域内」とあり、欽明陵に治定される檜隈坂合陵西南の俗に金鳥塚と称する円墳に治定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:高市郡>明日香村>嶋ノ庄村>嶋宮、明日香村>平田村>檜隈墓)
吉備姫王は、嶋、檜隈の地域を拠点としていたと推測されます。
いっぽう、吉備姫王は、茅渟王とのあいだに天豊財重日足姫(皇極)をもうけており、茅渟王の墓は、『延喜式』諸陵寮に「片岡葦田墓」とあって、大和国葛下郡の片岡葦田に縁がある人物とみられます。
さて、加夜奈留美の神名について、『延喜式』神名帳の備中国賀屋郡の名神大社吉備津彦神社(吉備津神社)の社伝に創建者とされる「加夜臣奈留美」と酷似することが注目されます。
吉備津神社は、『記』『紀』孝霊天皇系譜にみえる吉備津彦(彦五十狭芹彦)が吉備上道臣と関係を築き、関係を利用して吉備の浦凝別の利権を奪って加夜臣を成立させたことを起源とすると推測されます。(→ 吉備津彦の温羅退治伝承)
『記』『紀』孝霊天皇系譜は、吉備津彦及び吉備諸勢力の始祖系譜ですが、孝霊天皇の陵墓は、『記』『紀』『延喜式』に「片岡馬坂」とあり、吉備と片岡の関係が窺われます。
飛鳥の嶋宮の地は、本来、吉備津彦の拠点であり、そのため、背後のミハ山に祖神である加夜奈留美が奉祭されたのではないかと思われます。
7世紀半ば、嶋宮に「吉備」を名とする吉備姫王が住み、片岡に縁のある茅渟王と結婚し、その子が大王となった背景に、吉備津彦のネットワークの継続が想像されます。