楽々福神社の孝霊天皇伝承

鳥取県日野川流域の楽々福(ささふく)神社に、孝霊天皇の悪鬼退治の伝承が伝わります。

日野川上流の鳥取県日野郡日南町宮内に、東楽々福神社と西楽々福神社が鎮座し、東楽々福神社は、大日本根子彦太瓊(孝霊天皇)・細姫(孝霊后)・福姫(孝霊皇女)・若建吉備津彦(孝霊皇子)を、西楽々福神社は、大日本根子彦太瓊・細姫・彦狭島(孝霊皇子)を祀ります。

『伯耆志』(鳥取藩命により伯耆国の地誌として明治維新期に成立)によると、鬼林山・大倉山の牛鬼退治を行った孝霊天皇一行が行宮を建て、東社に天皇、西社に細姫(彦狭島ともいう)が座したと伝わります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡>日南町>東村>東楽々福神社、日南町>西村>西楽々福神社)

日野川中流の鳥取県西伯郡伯耆町宮原に鎮座する楽々福神社は、大日本根子彦太瓊・細比売を祭神とし、社殿によると、孝霊天皇が伯耆巡幸の際に笹をもって行宮を建てたので「楽々福の宮」と称し、和銅2年(709)に天皇と后を祀って楽々福大明神としたと伝わります。

日南町宮内の東楽々福神社・西楽々福神社が「奥日野大社」とよばれるのに対し、伯耆町宮原の楽々福神社は「口日野大社」とよばれます。 (『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡>溝口町>宮原村)

日野川支流印賀川流域の日南町印賀に鎮座する楽々福神社は、福姫を祀ります。

周辺に、「吉鑪」「鉄穴谷」の地名がみられ、近世、鑪(たたら)山として「道ノ子山」「二部山」「下炉山」「吉ヵ谷山」「高入山」があり、産物の印賀綱は天下第一といわれる伯耆産のなかでも極品とされました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡>日南町>大宮村、大宮村>楽々福神社)

『延喜式』主計寮に、伯耆国の調として鍬・鉄、庸として鍬がみえ、主産地は日野郡とされ、楽々福神社の孝霊天皇悪鬼退治伝承をたたら製鉄との関係が指摘されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡)

『出雲国風土記』仁多郡条に「伯耆の国日野の郡との堺なる阿志毗縁山に通ふは、卅七里なり」とみえます。

「阿志毗縁(あしびえ)山」を示す「阿毘縁(あびれ)」の地名は、伯耆・出雲の国境をなす船通山の北東部に残っています。

「阿毘縁」は、日南町印賀の楽々福神社より印賀川をさらに遡った最上流にあたり、万丈峠を越えて出雲横田へ至る法勝寺往来が通ります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡>日南町>上阿毘縁村)

また、日南町宮内の東楽々福神社・西楽々福神社からは、多里宿を経て、萩山峠(竜駒)を越えて出雲横田へ至る日野往来(横田越)が通じています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡>日野往来)

船通山を越えて出雲と伯耆を東西に結ぶ古道として、山の北側に法勝寺往来、南側に日野往来が通り、前者に沿って日南町印賀の楽々福神社、後者に沿って日南町宮内の東楽々福神社・西楽々福神社が鎮座するという位置関係にあります。

船通山は、出雲斐伊川の源流域であり、『記』八岐大蛇神話において、スサノヲが降った「出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地」とされ、「鳥髪山」「鳥上山」ともよばれます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:日野郡>日南町>船通山)

八岐大蛇神話は、船通山の分水嶺西側の出雲の地域、孝霊天皇の悪鬼退治伝承は、分水嶺東側の伯耆の地域を舞台とすることがわかります。

八岐大蛇神話について、大蛇を斬った剣(石上の布都御魂)について検証すると、『紀』崇神紀60年7月条の出雲振根討伐伝承に繫年され、斐伊川流域の製鉄・鍛造勢力を大王直下に掌握したことを描いた寓話と推測されます。(→ 石上神宮の起源伝承

出雲振根を討伐したのは孝霊天皇皇子の吉備津彦であることから、楽々福神社の孝霊天皇の鬼退治伝承は、その派生型とみられ、製鉄・鍛造勢力の大王直属化が船通山東側の伯耆国にまで及んでいたことを示す痕跡ではないかと思われます。

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