神渟名川耳と神八井耳

『記』『紀』に、手研耳討伐の話がみえます。

『紀』綏靖紀によると、神武天皇の没後、大和の后の子、神渟名川耳と神八井耳は、日向の妃の子、手研耳(たぎしみみ)を殺そうとします。

吾平津媛
 ├──────手研耳
神武
 ├──┬───神八井耳 
 │  └───神渟名川耳(綏靖) 
媛蹈鞴五十鈴媛

神八井耳が手を下す予定でしたが、手脚が震えて矢を射ることができず、神渟名川耳が支止め、恥じた神八井耳は皇位を神渟名川耳に譲り、自らは神祇を奉祭する役につくことを申し出ます。

『記』にも同様の話がみえ、神八井耳が「僕は、汝命を扶け、忌人と為て仕へ奉らむ」と言ったと記されます。

手研耳討伐は、幾重もの寓意を秘めて構成された、歴史的事実の描写と思われます。

まず、「神八井耳」と「神渟名川耳」に注目します。

「神八井耳」の後裔氏族として、『記』に、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣の19氏が記されます。

筆頭の意富臣は、多(太)臣とも表記され、『記』を撰上した太朝臣安万侶を輩出し、本拠地である大和国十市郡飫富郷、現在の奈良県磯城郡田原本町多には、多坐弥志理都比古神社など関係する神社が多数鎮座します。(→ 多坐弥志理都比古神社

いっぽう、「神渟名川耳」は、神武の後を継いで即位した綏靖天皇ですが、「渟名川」に寓意が隠されています。

「渟名川」は、翡翠を産出する新潟県・長野県を流れる姫川のことであり、越後国頸城郡にあたり、在地勢力は「倭直」同祖です。(→ 「渟名川」と倭直・阿曇連

また、「手研耳」は、『紀』に「片丘」で殺されたとあります。

「片丘」は、大和国葛下郡「片岡」を示し、「片岡」と「手研耳」の関係が窺われます。

次に、大和の子と日向の子の対立の原因について、『記』は、日向の子が、大和の子の母にあたる神武の后を娶ったことにあると記しますが、異母兄と母の結婚に対する怒りではなく、母に隠された寓意をめぐる争いと考えます。

大和の子の母である伊須気余理比売(媛蹈鞴五十鈴媛)は、三輪山の神と摂津三島の娘の子ですが、三輪山と摂津三島をめぐる事代主神の交通体系の寓意と思われます。(→ 媛蹈鞴五十鈴媛と狭井坐大神荒魂神社

「片岡」が事代主神の交通体系掌握しようとした時、「神八井耳」は躊躇したけれど「倭直」は怯まず潰したという構図が浮かび上がります。

さて、『延喜式』諸陵寮によると、片岡に陵墓があるのは、孝霊・顕宗・武烈の3天皇と茅渟王の4人です。

孝霊天皇は欠史八代の伝説的存在ですが、孝霊の子に「彦狭島」という人物がおり、神八井耳と深い関係を持ち、日本列島各地の港津を掌握していた痕跡があり、事代主神の交通体系との関係が認められます。(→ 常道仲国造の祖「建借間」)(→ 磯城県主・十市県主の系譜

いっぽう、顕宗・武烈は、5世紀末の大王ですが、片岡の陵墓は、片岡を本拠とする葛城襲津彦後裔葦田宿禰との関係を示します。

また、平群臣の討伐について、『記』は、顕宗が行ったとし、『紀』は、武烈が行ったと記します。

平群臣は片岡の大和川対岸を本拠とし、片岡とは一体的関係の勢力と推測され、顕宗・武烈の平群臣討伐は、「相討ち」を意味します。(「相討ち」の理由は不明です)

手研耳討伐の話と一義的に関わりが推測されるのは、顕宗・武烈と孝霊の子彦狭島ではないかと思われます。

◇ 『記』に、「神沼河耳(神渟名川耳)」は討伐の功績によって「建沼河耳」と称したとあるが、『記』『紀』にみえる大彦の子、「建沼河別(武渟川別)」と名称が酷似し、同一人物の可能性がある。(→ 築坂・久米・竹田と大伴連

目次