母木(おものき)

『紀』神武即位前紀戊午年4月条に、次のような記述がみえます。

初め孔舎衛の戦に、人有りて大きなる樹に隠れて、難を免るること得たり。

仍りて其の樹を指して曰はく、「恩、母の如し」といふ。

時人、因りて其の地を号けて、母木邑と曰ふ、

神武と長髄彦による「孔舎衛坂」の戦いの時に、「母木邑」の樹木の陰に隠れて難を逃れた人がいたことが書かれています。(→「孔舎衛坂」の戦いと長髄彦

「母木(おものき)」の地名は、生駒山地西麓に2カ所あります。

1つは、生駒山地の高安山の南西の山麓、恩智神社(大阪府八尾市恩智中町)付近の地名です。

かつて、恩智神社の神宮寺であった神宮寺感応院の十一面観音は、俗に「母木観音」とよばれており、『河内志』(享保19年(1734)成立)の恩智村の項に「上古、母木と号す。玉祖神社の旧記に見ゆ」とあります。

『住吉大社神代記』胆駒神南備山本記に、「胆駒神南備山」の四至として「西は母木里公田・鳥坂に至るまでを限る」、「母木里と高安国との堺に諍石在置り」とみえる「母木里」も同じ土地です。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:八尾市>恩智村)

もう1つは、枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町)付近の地名です。

建長4年(1252)6月3日付、藤原(水走)康高譲状案(水走文書)によると、河内郡五条に屋敷を構える水走氏が、豊浦郷公文職や母木寺本免下司職を重代相伝していたことが知られ、この母木寺は、枚岡神主旧記(水走文書)に、下豊浦に所在したことがみえます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)大阪府:河内国>河内郡>豊浦郷)

恩智神社の付近と枚岡神社の付近がいずれも「母木」とよばれていたことがわかります。

冒頭の『紀』神武即位前紀にみえる「母木邑の樹木の陰に隠れて難を逃れた人」とは、誰なのか。

『記』『紀』垂仁段にみえる、ホムツワケ伝承が生駒山地西麓を舞台することが注目されます。

「孔舎衛坂」の戦いとホムツワケ伝承は他にも複数連続する要素が認められ、「母木邑の樹木の陰に隠れて難を逃れた人」とは、火の中から助け出されたホムツワケを示すのではないかと考えます。(→ 「孔舎衛坂」の戦いからホムツワケへ)

◇ 『紀』継体紀24年9月条にみえる河内母樹馬飼首御狩の「母樹(おものき)」も同所を示し、『紀』継体即位前紀にみえる、継体天皇に即位するよう説得した河内馬飼首荒籠は、その同族とみられ、継体擁立に「母木」の勢力が関与したことが窺えます。

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