築坂・久米・竹田と大伴連

『紀』神武紀2年2月条に、次のような記述がみえます。

道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて、寵異みたまふ。

亦大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。

今、来目邑と号くるは、此、其の縁なり。

神武は、東征の功績の報賞として、大伴連祖、道臣に「築坂邑」を、大来目に「畝傍山の西の川辺の地」「来目邑」を賜りました。

「築坂(つきさか)」は「桃花鳥坂」とも記され、北に畝傍山、南に貝吹山を臨む、式内社の鳥屋神社の鎮座地、奈良県橿原市鳥屋町に比定されます。

神武と正妃媛蹈鞴五十鈴媛のあいだに生まれた神渟名川耳は、即位して2代目の綏靖天皇となりますが、綏靖陵について、『記』に「御陵は衝田岡に在り」、『紀』に「倭の桃花鳥田丘上陵に葬る」とみえ、「桃花鳥坂」に葬られたことがわかります。(橿原市四条町に治定)

また、神渟名川耳の兄、神八井耳の墓も、『紀』に「畝傍山の北に葬る」と記され、近隣に所在します。(→ 神渟名川耳と神八井耳

その他に、『延喜式』諸陵寮に、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵、倭彦命の身狭桃花鳥坂墓がみえ、橿原市鳥屋町に治定されています。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):奈良県:橿原市>畝傍地区>鳥屋村、鳥屋村>鳥坂神社、鳥屋村>身狭桃花鳥坂上陵、鳥屋村>桝山古墳、畝傍地区>四条村>桃花鳥田丘上陵)

「来目邑」は、『和名抄』大和国高市郡久米郷にあたり、鳥屋町の東に隣接する、奈良県橿原市久米町に比定され、式内社の久米御県神社、久米部の本貫の地に建立された私寺とみられる久米寺が所在します。

久米寺については、久米仙人による創建伝承が知られています。

『和州久米寺流記』の「久米仙人経行事」や『今昔物語集』によれば、大和国吉野竜門寺に3人の仙人がおり、そのなかの毛竪仙人が竜門岳から葛木峯へ飛行する途中、久米川で布を洗う女の股を見て通力が失せ、大地に落ちてしまいますが、その後、女と夫婦となって暮らし、東大寺造立の人夫として、かつての通力で材木を飛行させて運び、賞として賜った免田三十町により久米寺を創建したと伝えます。

下ツ道(国道169号線)に面した、仙人が落下したという場所には、芋洗地蔵がありましたが、2016年に、50m東に移設され祀られています。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):奈良県:橿原市>畝傍地区>久米村、久米村>久米御県神社、久米村>久米寺、久米村>芋洗地蔵)

畝傍山山麓の築坂・久米は、大伴連の居地であり、神武の子、神渟名川耳・神八井耳とも関係が深いことがわかります。

いっぽう、奈良県橿原市東竹田町にも大伴連の拠点があったことが知られています。

『万葉集』に、次のような歌がみえます。

大伴坂上郎女、竹田庄より女子大嬢に贈りし歌二首

うち渡す竹田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは

『万葉集』巻4-760

「竹田庄」は、久安4年(1148)の「東大寺領大和国雑役免顛倒荘注進状(東大寺文書)」の十市郡に「西吉助庄廿六町八段〈号竹田庄〉」とみえ、隣接する桜井市東新堂に南竹田・北竹田の小字が残ることから、寺川両岸の奈良県橿原市東竹田町に擬定されます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):奈良県:橿原市>多・耳成地区>東竹田村)

また、『紀』天武紀元年7月条にみえる、壬申の乱の天武天皇方の倭京将軍、大伴吹負の「百済の家」について、当該地より2km南方の、橿原市法花寺町の小字東百済・西百済とする見解があります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowlegde):奈良県:橿原市>鴨公・香久山地区>高殿村>百済宮)

また、竹田には、竹田川辺連を神官とする、大和国十市郡の式内社、竹田神社が鎮座します。

『姓氏録』左京神別下の竹田川辺連の項に、次のように記されます。

同じき(火明)命の五世の後なり。

仁徳天皇の御世に、大和国十市郡の刑坂川の辺に竹田神社有り。

因りて氏神と為て、同居に住めり。

緑竹大きく美しかりければ、御箸の竹に供りき、

茲に因りて竹田川辺連を賜ひき。

竹田川辺連は、火明(ホアカリ)の後裔氏族とありますが、火明は神八井耳と密接な関係にあります。(→ 河内志紀と尾張を結ぶ神八井耳

『和州五郡神社神名帳大略注解』巻四補闕所引「多神宮注進状草案」に記される多氏の関係神社のなかに竹田神社がみえることもそのことを示しています。

また、『姓氏録』左京皇別上にみえる竹田臣も十市郡の竹田を本拠地とする氏族とされ、「阿倍朝臣同祖 大彦命の男、武渟川別命の後なり」と記されます。

竹田は、大伴連の拠点であるとともに、神武の子、神八井耳、大彦の子、武渟川別と深い関わりを持つ土地であることがわかります。

さて、築坂・久米に、「大伴連」「神八井耳」「神渟名川耳」、竹田に「大伴連」「神八井耳」「武渟川別」の痕跡が認められます。

「大伴連」「神八井耳」が共通し、「神渟名川耳」と「武渟川別」は名称が酷似します。

「神渟名川耳」は神武の子であり、「武渟川別」は大彦の子ですが、2者は「ぬなかわ」を共有し、また「神渟名川耳」は、『記』に「建沼河別」とみえ、違いは「耳」と「別」のみであり、ほとんど同じ名といえます。

◇ 神八井耳と大彦は、ともに、宇陀郡の「墨坂」と深く関わり、子を拾って育てる伝承を共有する。また、大伴連は、宇陀郡にも拠点を持つ。(→ 大彦の「墨坂」伝承)(→ 大和国宇陀郡と大伴連・倭直

◇ 「渟名川(ぬなかわ)」は、翡翠を産出する越後国頸城郡の姫川を示す。(→ 「渟名川」と倭直・阿曇連

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