鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)は、タケミカヅチを祭神とし、『延喜式』神名帳に常陸国鹿嶋郡の名神大社と記されます。
『常陸国風土記』に、次のようにみえます。
古老の曰へらく、難波の長柄の豊前の大朝に馭宇しめしし天皇のみ世、己酉の年に、
大乙上、中臣の□子、大乙下中臣部の兎子等、惣領高向の大夫に請ひて、
下総の国海上の国の造の部内、軽野より以南の一里と、
那賀の国の造の部内、寒田より以北の五里とを割きて、
別に神の郡を置きき。
その処に有ませる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社の三処を合はせて、
惣べてを香島の天の大神と称ふ。
因りて郡に名づく。〈風俗の説に霰零る香島の国と云ふ。〉
大化5年(649)、中臣□子、中臣部兎子の奏上により、下総国海上国造の土地1里と那賀国造の土地5里を合わせて香島郡とし、そこに鎮座する「天の大神の社」「坂戸の社」「沼尾の社」の3社を合わせて「香島の天の大神」としたことが記されます。
つづいて、「香島の天の大神」が豊葦原水穂国を平定したこと、崇神朝に大坂山の山頂に白服で顕現し、大中臣神聞勝の進言により多くの供物が献納されたこと、天智朝に神宮が造営されたこと、また、毎年7月に新造の舟を奉納する起源譚として、ヤマトタケルの時代の中臣臣狭山への託宣の話がみえます。
さらに、毎年4月10日に卜部氏が祭りを行うことがみえ、神社の周辺は卜部氏の居住地であることが記されます。
『続紀』天平18年(746)3月丙子(24日)条に「常陸国鹿嶋郡の中臣部二十烟と占部五烟とに、中臣鹿嶋連の姓を賜ふ」とみえ、神社周辺に住む卜部(占部)は中臣氏であることがわかります。
このように『常陸国風土記』では一貫して「中臣□子・中臣部兎子」「大中臣神聞勝」「中臣臣狭山」「卜部(中臣鹿島連)」と、鹿島神宮に関与する氏族が中臣氏であることが記されます。
いっぽう、神社の本格的な成立は649年とあり、それ以前については、崇神やヤマトタケルなど曖昧な年代のことだけが記述され、5〜6世紀の具体的な状況がみえないことが注目されます。
また、中臣氏の祖のなかに「大鹿嶋」なる人物が存在することに注目します。
「大鹿嶋」は、『紀』垂仁紀に「中臣連遠祖大鹿嶋」とみえ、また『皇太神宮儀式帳』に、荒木田神主の遠祖「国摩大鹿嶋」と記されます。
『尊卑分脈』所載の「藤原氏系図」に「神聞勝命ー久志宇賀主命ー国摩大鹿嶋命ー臣狭山命」とみえ、『常陸国風土記』において「神聞勝」「臣狭山」の事績への言及があるのに、鹿嶋に関わる名を持つ「大鹿嶋」はスルーされています。
いっぽう、冒頭にあるように、香島郡の大部分は、那賀国造の土地でしたが、那賀国造の祖も「建借間」と鹿嶋に関わる名を持っています。(→ 常道仲国造の祖「建借間」)
「大鹿嶋」は中臣氏、「建借間」は多氏と、属する神系は異なりますが、ともに一義的に常陸国の鹿嶋に関わり、さらに「磯部(石部)」を共通の属性とします。
(→ 「中臣大鹿嶋」と2人の「彦狭島」の共通点)
「大鹿嶋」「建借間」は同一人物とみられ、彼によって形成された「磯部(石部)」のネットワークの再始動と掌握を目論んだ中臣氏が、7世紀半ば、鹿嶋の地にタケミカヅチを祭祀したのではないかと推測します。