『延喜式』神名帳の大和国添下郡の添御県坐神社は、2社が論社となっています。
1つは、奈良市三碓の添御県坐神社、1つは、奈良市歌姫町の添御県坐神社であり、『大和志』『大和名所図会』『神名帳考証』『神社覈録』は前者を、『大和志料』は後者を式内社とします。
2社ともに、武乳速命・建速須佐男命・櫛稲田姫命の3神を祭神とします。
『姓氏録』大和国神別に、添県主がみえます。
添県主 津速魂命の男、武乳遺命自り出づ
添県主は、添県の県主であったことに由来します。
『延喜式』祈年祭祝詞に、「御県に坐す皇神等の前に曰さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名は白して、この六つの県に生り出づる、甘菜・辛菜を持ち参ゐり来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞しめすが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称辞竟へまつらく」とみえ、大和に6県があって朝廷の供御にあてる菜を調進し御県神が祀られました。
曾布県は、令制下の添上郡・添下郡を合わせた広大な地域で、現在の奈良市・大和郡山市・生駒市・山辺郡東部にあたり、『紀』神武即位前紀己未年2月20日条に「層富県」、天平2年(730)「大倭国正税帳」(正倉院文書)に「添御県」とみえます。
津速魂命は、「神代本紀」に津速魂尊とみえ、「児市千魂尊児興登魂尊児天児屋根命〈中臣連等祖〉」と記され、『姓氏録』に、藤原朝臣他9氏族の祖神とされます。
三碓の添御県坐神社の鎮座地に注目します。
三碓は、古代の「鳥見」に属します。
「鳥見」は、長髄彦(登美能那賀須泥毗古)の本拠地で、『紀』神武即位前紀に物部氏発祥の地として描かれます。(→ 「孔舎衛坂」の戦いと長髄彦)
中世には周辺に、上鳥見荘・中鳥見荘・下鳥見荘が展開し、生駒市上町の伊弉諾神社が上鳥見荘、奈良市石木町の登弥神社が下鳥見荘の鎮守とされ、三碓の添御県坐神社は、中鳥見荘の鎮守として村落共同体のなかで重要な位置にありました。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:大和国>添上郡、添下郡、奈良市>秋篠・富雄地区>三碓村>添御県坐神社、秋篠・富雄地区>歌姫村>添御県坐神社)
すなわち、三碓の添御県坐神社は、物部氏発祥の地に鎮座し中臣氏の祖神を祭祀します。
『大和志料』が三碓ではなく歌姫の添御県坐神社を式内社とする理由はこの点にあります。

いっぽう、三碓の添御県坐神社の社伝によると、富雄川流域の鎮座地周辺は、小野氏の子孫が治める林業を営む杣人の里で、一説に、境内末社の福神宮に祭られる小野福麿公が当社を整備造営したと伝えます。(「ご参拝のしおり 富雄を里のパワースポット 添御縣坐神社」)
三碓の添御県坐神社の社伝は、一義的に関わる勢力を小野臣とします。
小野臣は、『記』孝昭系譜にみえる春日臣を筆頭とする和珥の一族の1つです。
春日臣は、春日大社の鎮座地周辺を本拠地とし、『紀』垂仁紀39年10月条一云では、石上神宮の奉祭者とされ、中臣氏と物部氏の双方との重複が認められ、この点が、三碓の添御県坐神社の属性と一致することが注目されます。(→ 「布都御魂」と「経津主」)