顕宗・仁賢の系譜について、『記』『紀』に次のようにみえます。
弘計天皇は、大兄去来穂別天皇の孫なり。市辺押磐皇子の子なり。母をば、荑媛と曰す。
譜第に曰はく、市辺押磐皇子、蟻臣の女荑媛を娶す。蟻臣は、葦田宿禰の子なり。
『紀』顕宗即位前紀
葦田宿禰が女黒媛を立てて皇妃とす。
妃、磐坂市辺押羽皇子・御馬皇子・青海皇女を生めり。
『紀』履中紀元年7月条
此の天皇、葛城之曾都比古が子、葦田宿禰が女、
名は黒比売命を娶りて、生みし御子は、市辺之忍歯王
『記』履中記
系図にすると、次のとおりです。
仁徳
├──去来穂別皇子(履中)
┌─磐之媛 ├──市辺押磐皇子
葛城襲津彦─┴─葦田宿禰─┬─黒媛 ├─┬─億計(仁賢)
│ │ └─弘計(顕宗)
│ │
└─蟻臣──荑媛
履中天皇と葦田宿禰の娘が結婚して市辺押磐皇子をもうけ、市辺押磐皇子は葦田宿禰の孫と結婚して顕宗・仁賢をもうけており、市辺押磐皇子と顕宗・仁賢の父子は、2世代にわたり母系を葦田宿禰一族とします。
葦田宿禰の「葦田」は「片岡の葦田」とよばれ、古代の「片岡」に含まれる地名で、奈良盆地西端、奈良県北葛城郡王寺町、大和川支流の葛下川下流域に比定されます。(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge )』奈良県:北葛城郡>片岡、北葛城郡>葦田)
◇ 顕宗・仁賢・武烈の時代の記述は、『記』『紀』神武段・崇神段と、様々な点で相関性がみられます。(→ 顕宗・仁賢・武烈と吉備津彦)