鈴鹿山脈の霊峰、綿向山を御神体とする馬見岡綿向神社は、滋賀県蒲生郡日野町村井に鎮座し、『延喜式』神名帳の近江国蒲生郡にみえる「馬見岡神社二座」に比定されます。
出雲系の天穂日命・武三熊大人命・天夷鳥命の3神を祭神とし、宮司は、南北朝期頃まで出雲宿禰を称しており、また、近世に入るまで当地一帯の稲作に重要な水源であった日野川から取水する人工河川が「出雲川」とよばれるなど、「出雲」との関係が認められます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):滋賀県:蒲生郡>日野町>日野町>北今町>馬見岡綿向神社)
いっぽう、蒲生郡の琵琶湖水運の要衝、豊浦湊についても「出雲」の属性が認められます。
安土内湖に面する豊浦湊は、近世に琵琶湖内水面漁業の漁港として栄えましたが、港の機能は古く遡るとみられ、中世の豊浦庄の外港とする説もあります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):滋賀県:蒲生郡>安土町>安土城下>下豊浦村)
長門国豊浦郡や河内国河内郡豊浦郷の例からみて、「豊浦」の地名に一義的に関係する勢力は天津彦根ですが、天津彦根は、『記』『紀』ウケヒ神話の系譜において、出雲臣の祖神の兄弟神とされます。(→ 長門の住吉坐荒御魂神社)(→ 枚岡神社と天児屋根・天津彦根)
また、近江八幡市安土町下豊浦には、天津彦根の弟神、活津彦根神社が鎮座し、古くは「庄神大明神」とよばれ、豊浦庄鎮守となっていました。
豊浦に隣接する近江八幡市安土町常楽寺には、式内社である沙沙貴神社が鎮座し、近江国蒲生郡の郡領氏族である佐々貴山君の本拠地、『和名抄』近江国蒲生郡篠笥郷に比定されます。
佐々貴山君は、近江国蒲生郡の郡領氏族であり、大領として、『続日本紀』天平16年(744)8月乙未条に、佐々貴山君親人、『続日本紀』延暦4年(785)正月癸亥条に、佐々貴山君由気比、『日本三代実録』元慶元年(877)12月2日条に、佐々貴山公是野がみえます。
豊浦湊の機能は古代に遡り、佐々貴山君の権力基盤の1つと推測されます。
また、『紀』顕宗紀に、前述の馬見岡綿向神社鎮座地を含む「蒲生野」を舞台とする、佐々貴山君の起源伝承がみえます。
大彦後裔氏族である佐々貴山君の本拠地に「出雲」の属性が認められることに注目します。
『記』ウケヒ神話の系譜に、天津彦根後裔氏族として蒲生稲寸がみえます。
氏の名に郡名を負っており、蒲生郡の有力氏族と思われますが、実態は不明であり、『記』ウケヒ神話以外では、「平城京二条大路木簡」の「勘富郡桐原郷益国里」「勘富[ ]」の「勘富」をガマフと読み、蒲生稲寸の一族と推測されるのが唯一の例です。(桐原郷は、日野川中流域の近江八幡市安養寺町周辺に比定)(大橋信弥「阿倍氏と佐々貴山君氏」(『阿倍氏の研究』2017年))
近江国蒲生郡の「出雲」の属性は、蒲生稲寸のものである可能性があります。
『紀』の佐々貴山君の起源伝承は、出雲系の天津彦根から大彦への在地勢力の交替を描き、本質的には王権による鉄の精錬・鍛造勢力の掌握を示します。(→ 佐々貴山君の起源伝承)