飯豊皇女と葛木坐火雷神社

雄略の後を継いで即位した清寧天皇が亡くなり、後継王が不在となった時、市辺押磐皇子の遺児2人が播磨の志染で偶然に発見され、弟、兄の順で即位し、顕宗天皇、仁賢天皇となります。

『記』『紀』に、顕宗、仁賢の即位に際し、飯豊皇女が重要な役割を果たしたことが記されます。

此の天皇は、皇后無く、亦、御子も無し。

故、御名代に白髪部を定めき。

故、天皇の崩りましし後に、天の下を治むべき王無し。

是に、日継知らさむ王を問ひて、

市辺忍歯別王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王を、

葛城の忍海の高木角刺宮に坐せき。

『記』清寧記

飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交したまふ。

人に謂りて曰はく、

「一女の道を知りぬ。又安にぞ異なるべけむ。

終に男に交はむことを願せじ」とのたまふ。

此に夫有りと曰へること、未だ詳ならず。

『紀』清寧紀3年7月条

是の月に、皇太子億計王と天皇と、位を譲りたまふ。

久にして処たまはず。

是に由りて、天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。

自ら忍海飯豊青尊と称りたまふ。

当世の詞人、歌して曰はく、

 倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮

『紀』顕宗即位前紀

飯豊皇女は、『記』および『紀』履中系譜に、市辺押磐皇子の妹と記され、『紀』顕宗即位前紀では、顕宗の姉、『紀』顕宗即位前紀の文注にみえる「譜第」に、顕宗・仁賢の妹(一本では姉)とされ、2系の情報がみられます。

また、「亦の名」として「青海皇女」「青海郎女」「飯豊青皇女」「忍海飯豊青尊」と記され、「青海」「青」との関係が注目されます。

『延喜式』神名帳に、若狭国大飯郡の青海神社(福井県大飯郡高浜町青)、越後国頸城郡の青海神社(新潟県糸魚川市青海)、越後国蒲原郡の青海神社(新潟県加茂市加茂)と3つの「青海神社」がみえ、3社とも倭直祖の椎根津彦を祭神とし、「青海」は倭直に関わる指標と思われます。

また、『紀』履中紀に、倭直吾子籠が「攪食の栗林」に精兵数百を集えたことがみえます。

「攪食(かきはみ)の栗林(くるす)」は大和国忍海郡栗栖郷にあたり、奈良県御所市柳原、もしくは葛城市薑に比定され、周辺に倭直の拠点が所在したことがわかります。

いっぽう、「忍海角刺宮」の比定地である奈良県葛城市忍海は、柳原、薑に近接し、「青海」の別名とともに、飯豊皇女は倭直に近しい人物と推測されます。

『記』に、飯豊皇女が「日継知らさむ王を問ひて」忍海角刺宮にいたとある点に注目します。

「日継知らさむ王を問ひて」は、『紀』清寧紀3年7月条の「飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交したまふ」に関わるもので、「与夫初交(まぐはひ)」は神婚を意味し、「与夫初交」した神に「後継王をたずねた」と解されます。

さて、飯豊皇女の神婚相手の神ですが、忍海角刺宮に近くにあり、高い神格を有したと想像されますが、『延喜式』神名帳に、大和国忍海郡の名神大社として葛木坐火雷神社がみえ、奈良県葛城市笛吹に鎮座する笛吹神社に比定されます。

葛木坐火雷神社は、名神大社として月次・相嘗の幣帛に与りましたが、その後沿革が不明となり、平安後期から『奥義抄』『袖中抄』などに笛吹神社の名が現れるようになります。

笛吹神社は、大嘗会などで吉凶を卜するハハカ(ウワミズザクラ)の献木で有名な神社として知られますが、葛木坐火雷神社の後身なのか否かは明確ではありません。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:北葛城郡>新庄町>笛吹村・上村馬場村>葛木坐火雷神社)

「笛吹」は、『姓氏録』に火明後裔氏族としてみえる笛吹の拠点と推測されます。

倭直に近しい飯豊皇女が葛木坐火雷神に問うかたちで、顕宗・仁賢が後継王として認められたことに注目します。

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