清寧天皇の没後、後継王が不在となった時、播磨に隠れていた市辺押磐皇子の遺児2人が「山部連先祖伊予来目部小楯」によって発見され、弟、兄の順で即位し、顕宗天皇、仁賢天皇となります。
『紀』によると、2人は、父が殺された後、日下部連使主に連れられて丹後国与謝郡へ逃れ、その後、播磨国明石郡の縮見へ移り、縮見屯倉首である忍海部造細目に匿われていました。
「縮見(しじみ)」は、『和名抄』に「播磨国美囊郡志深郷」、『播磨国風土記』に「美囊郡志深里」とあるように「志深」とも記され、加古川支流美嚢川の支流の志染川と、志染川支流の淡河川の流域、兵庫県三木市志染町吉田以東、神戸市北区淡河町地区へ至る地域に比定されます。
『紀』に明石郡とあるのは、古来、美囊郡が明石郡に含まれていたことによるといわれます。
『紀』顕宗紀元年正月条の「或本」に、顕宗の宮が「小郊」「池野」にあったことがみえ、『播磨国風土記』には、「高野」「少野」「川村」「池野」の4カ所と記されます。
「池野」は、三木市志染町窟屋にあたる近世の池野村が遺称地とされ、顕宗と仁賢が隠れ住んでいたという、ヒカリモ(光藻)の自生する「志染の石室」とよばれる岩穴があります。
『続日本紀』延暦8年12月乙亥条に、美囊郡大領として韓鍛首広富がみえ、韓鍛冶の管理者である韓鍛首が在地有力勢力であることがわかります。
また、『延喜式』木工寮に播磨国に鍛冶戸が16烟配されたことがみえ、『続日本紀』養老6年3月辛亥条の雑工人の改姓記事に、播磨国の忍海漢人麻呂・韓鍛冶百依が、伊賀・伊勢・近江・丹波・紀伊の、金作部・忍海漢人・忍海部・飽波漢人・韓鍛冶首・韓鍛冶・弓削部・鎧作姓の者とともにみえ、さらに『肥前国風土記』三根郡漢部郷条に、忍海漢人が兵器を造ったという記述がみえます。
顕宗・仁賢を匿っていた忍海部造細目が統率する忍海部とは、韓鍛冶・忍海漢人と同様、鉄の精錬と鍛造を行う勢力と推測されます。(山尾幸久『日本古代王権形成史論』1983年、435~437頁)
伊予来目部小楯は、顕宗・仁賢を見つけた褒美として「山官」に任じられました。
『紀』顕宗紀元年4月条に、次のように記されます。
詔して曰はく、
「凡そ人主の民を勧むる所以は、惟授官ふなり。
国の興る所以は、惟功を賞ふなり。
其れ前播磨国司、来目部小楯、〈更の名は、磐楯。〉求め迎へて朕を挙ぐ。
厥の功茂し。
志願しからむ所、難ること勿く言せ」
とのたまふ。
小楯、謝りて曰さく、
「山官、宿より願しき所なり」とまうす。
乃ち山官に拝して、改めて姓を山部連の氏と賜ふ。
吉備臣を以て副として、山守辺を以て民とす。
「吉備臣を以て副として」とあることに注目します。
『紀』清寧即位前紀によると、雄略の没後、雄略と吉備稚媛の子である星川皇子が王位を狙って反乱を起こすと、吉備上道臣等は船団を派遣して支援しましたが、反乱は失敗して星川皇子は殺され、上道臣等は罰として「山部」を没収されました。
上道臣等の「山部」とは、中国山地の製鉄・鍛造集団であるといわれます。
「山官」は、(吉備臣よりも上位にたつ)没収した山部の新たな支配者を示しています。
播磨の加古川水系域は、吉備系氏族の居住が顕著であり、顕宗・仁賢が発見された鍛造集団の家も元来は吉備勢力の影響下にあったと推測されます。
一連の動向は、王権による吉備の山部の直轄化を描いています。
(山尾幸久『日本古代王権形成史論』1983年、434~440頁)
いっぽう、伊予来目部の本拠地については、愛媛県松山市来住町、重信川水系の小野川右岸の久米官衙遺跡群が注目されます。
久米官衙遺跡群は、7世紀前半から平安時代に至る官衙関連遺跡と7世紀中葉以降に創建された古代寺院跡である来住廃寺からなり、「久米評」銘の須恵器が出土したことから、久米評(郡)政庁施設と推定されています。
小字の「来住(きし)」は、難波吉士・草香部吉士の吉士に通じます。(→ 難波吉士の賜姓)
伊予来目部小楯は、瀬戸内海から加古川を遡り、支流の美嚢川からさらに支流の志染川に入り、顕宗・仁賢が隠れていた志染へ至ったと思われますが、加古川から美嚢川が分流する地点の4km上流の右岸に、「来住(きし)」(兵庫県小野市来住町)の地名が認められます。
「来住」は、『播磨国風土記』にみえる賀毛郡楢原里伎須美野の地であり、『和名抄』播磨国賀茂郡柞原郷にあたります。
『播磨国風土記』に、次のようにみえます。
右、伎須美野と号くるは、
品太の天皇のみ世に、大伴の連等、此処を請ひし時に、
国の造黒田別を喚して、地の状を問ひたまひき。
尓時、対へて曰ししく、
「縫へる衣を櫃の底に蔵めるがごとし」とまをしき。
故、伎須美野と曰ふ。
「大伴連」は、来住の対岸(兵庫県小野市下大部町・片山町)に所在した、中世の東大寺の大部庄の経営に関与した勢力です。
2つの「来住」は、伊予来目部と播磨志染を繫ぐもので、顕宗・仁賢の発見は、吉士の交通体系と密接な関係にあったことが窺われます。
◇ 顕宗・仁賢・武烈の時代の記述は、『記』『紀』神武段・崇神段と様々な点で相関性がみられます。(→ 顕宗・仁賢・武烈と吉備津彦)